・・・柳吉の冷やかな視線は、なぜか蝶子を圧迫した。蝶子はそれに負けまいとして、持前の勝気な気性が蛇のように頭をあげて来た。柳吉の妹がくれた百円の金を全部でなくとも、たとえ半分だけでも、母親の葬式の費用に当てようと、ほとんど気がきまった。ままよ、せ・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・ 豹吉のは氷河の氷に通じ、意表の表に通ずる、といえば洒落になるが、彼は氷のような冷やかな魂を持ち、つねにひとびとの意表を突くことにのみ、唯一の生甲斐を感じている、風変りな少年だった。 自分はいかなることにも驚かぬが、つねに人を驚かす・・・ 織田作之助 「夜光虫」
・・・自分は今これを冷やかに書くが、机の抽斗を開けてみて百円の紙包が紛失しているのを知った時は「オヤ!」と叫けんだきり容易に二の句が出なかった。「お前この抽斗を開けや為なかったか」「否」「だって先刻入れて置いた寄附金の包みが見えないよ・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・同十九日――「天晴れ、風清く、露冷やかなり。満目黄葉の中緑樹を雑ゆ。小鳥梢に囀ず。一路人影なし。独り歩み黙思口吟し、足にまかせて近郊をめぐる」同二十二日――「夜更けぬ、戸外は林をわたる風声ものすごし。滴声しきりなれども雨はすでに止み・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・父母の恩、師の恩、国土の恩、日蓮をつき動かしたこの感恩の至情は近代知識層の冷やかに見来ったところのものであり、しかも運命共同体の根本結紐として、今や最も重視されんとしつつあるところのものである。 しかるにその翌月、十一月十一日には果して・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・近代の知性は冷やかに死後の再会というようなことを否定するであろうが、この世界をこのアクチュアルな世界すなわち娑婆世界のみに限るのは絶対の根拠はなく、それがどのような仕組みに構成されているかということは恐らく人知の意表に出るようなことがありは・・・ 倉田百三 「人生における離合について」
・・・ 九日、朝四時というに起き出でて手あらい口そそぎ、高き杉の樹梢などは見えわかぬほど霧深き暁の冷やかなるが中を歩みて、寒月子ともども本社に至り階を上りて片隅に扣ゆ。朝々の定まれる業なるべし、神主禰宜ら十人ばかり皆厳かに装束引きつくろいて祝・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・今は斯様よとそれにて御自害あり、近臣一同も死出の御供、城は火をかけて、灰今冷やかなる、其の残った臣下の我等一党、其儘に草に隠れ茂みに伏して、何で此世に生命生きようや。無念骨髄に徹して歯を咬み拳を握る幾月日、互に義に集まる鉄石の心、固く結びて・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・よしんばおせんは、彼女が自分で弁解したように、罪の無いものにもせよ――冷やかに放擲して置くような夫よりは、意気地は無くとも親切な若者を悦んだであろう。それを悦ばせるようにしたものは、誰か。そういうことを機会に別れようとして、彼女の去る日をの・・・ 島崎藤村 「刺繍」
・・・その屈辱の苦味をかみしめて歩いているうちに偶然ある家へはいると、そこは冷やかな玄関でも台所でもなくそこに思いがけない平和な家庭の団欒があって、そして誰かがオルガンをひいていたとする。その瞬間に乞食としての自分の情緒がいくらかの変化を受けはし・・・ 寺田寅彦 「小さな出来事」
出典:青空文庫