・・・汗になった所々は氷るように冷たかった。仁右衛門はしかし元気だった。彼れの真闇な頭の中の一段高い所とも覚しいあたりに五十銭銀貨がまんまるく光って如何しても離れなかった。彼れは鍬を動かしながら眉をしかめてそれを払い落そうと試みた。しかしいくら試・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・鯨の冬の凄じさは、逆巻き寄する海の牙に、涙に氷る枕を砕いて、泣く児を揺るは暴風雨ならずや。 母は腕のなゆる時、父は沖なる暗夜の船に、雨と、波と、風と、艪と、雲と、魚と渦巻く活計。 津々浦々到る処、同じ漁師の世渡りしながら、南は暖に、・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・北の海なる海鳴の鐘に似て凍る時、音に聞く……安宅の関は、この辺から海上三里、弁慶がどうしたと? 石川県能美郡片山津の、直侍とは、こんなものかと、客は広袖の襟を撫でて、胡坐で納まったものであった。「だけど……お澄さんあともう十五分か、二十・・・ 泉鏡花 「鷭狩」
・・・あわれ八田は警官として、社会より荷える負債を消却せんがため、あくまでその死せんことを、むしろ殺さんことを欲しつつありし悪魔を救わんとして、氷点の冷、水凍る夜半に泳ぎを知らざる身の、生命とともに愛を棄てぬ。後日社会は一般に八田巡査を仁なりと称・・・ 泉鏡花 「夜行巡査」
湯島の境内 冴返る春の寒さに降る雨も、暮れていつしか雪となり、仮声使、両名、登場。上野の鐘の音も氷る細き流れの幾曲、すえは田川に入谷村、その仮声使、料理屋の門に立ち随・・・ 泉鏡花 「湯島の境内」
・・・そして、雪の凍る寒い静かな夜の、神秘なことが書いてありました。 青い星を見た刹那から、彼女を北へ北へとしきりに誘惑する目に見えない不思議な力がありました。 とうとう、二、三日の後でした。年子は、北へゆく汽車の中に、ただひとり窓に凭っ・・・ 小川未明 「青い星の国へ」
・・・霜白く置きそむれば、小川の水の凍るも遠からじと見えたり。かくて日曜日の夕暮れ、詩人外より帰り来たりて、しばしが間庭の中をあなたこなたと歩み、清き声にて歌うは楽しき恋の歌ならめ。この詩人の身うちには年わかき血温かく環りて、冬の夜寒も物の数なら・・・ 国木田独歩 「星」
・・・馬の尻をしぶく鞭の音が凍る嵐にもつれて響いてきた。「どうした、どうした?」「逃がしたよ。」「怪我しやしなかったかい?」「あゝ、逃がしちゃったよ。」 栗本の笑う白い歯が闇の中にあった。 四 馬が苦・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・窪地には、泉からちょろちょろ流れ出す水がたまって、嘉七の背中から腰にかけて骨まで凍るほど冷たかった。 おれは、生きた。死ねなかったのだ。これは、厳粛の事実だ。このうえは、かず枝を死なせてはならない。ああ、生きているように、生きているよう・・・ 太宰治 「姥捨」
・・・私は、この女には、なんの興味も覚えなかったのであるが、いまひとりの少女、ああ、私はこの女をひとめ見るより身内のさっと凍るのを覚えた。いま思うと、なんの不思議もないことなのである。わかい頃には、誰しもいちどはこんな経験をするものなのだ。途上で・・・ 太宰治 「断崖の錯覚」
出典:青空文庫