・・・その天稟の能力なるものは、あたかも土の中に埋れる種の如く、早晩萌芽を出すの性質は天然自然に備えたるものなり。されども能くその萌芽を出して立派に生長すると否らざるとは、単に手入れの行届くと行届かざるとに依るなり。即ち培養の厚薄良否に依るという・・・ 福沢諭吉 「家庭習慣の教えを論ず」
・・・――一滴もいけなかった私が酒を飲み出す、子供の時には軽薄な江戸ッ児風に染まって、近所の女のあとなんか追廻したが、中年になって真面目になったその私が再び女に手を出す――全く獣的生活に落ちて、終には盗賊だって関わないとまで思った。いや、真実なん・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
・・・(死は物を呼び寄するが如き音をヴァイオリンにて弾じ出す。この時死は寝室の扉の傍、舞台の前の方、右手に立ちおり、主人は左手壁の方、薄暗き処に立ちおる。右手の扉を開きて主人の母出で来る。更けたりという程にはあらず。長き黒き天鵞絨の上着を・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・銭乏しかりける時米の泉なほたらずけり歌をよみ文をつくりて売りありけども 彼が米代を儲け出す方法はこの歌によりてやや推すべし。ある日、多田氏の平生窟より人おこせ、おのが庵の壁の頽れかかれるをつくろはす来つる・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・ところがいまにみんな暴れ出す。来年になるとあれがみんな二年生になっていい気になる。さ来年はみんな僕らのようになってまた新入生をわらう。そう考えると何だか変な気がする。伊藤君と行って本屋へ教科書を九冊だけとっておいてもらうように頼んでおいた。・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・のではなくて、事実の性質とその解決の方向を明らかにして、たとえ半歩なりともその方へ歩き出すための矢じるしの一つとして、書かれている。云わば、番地入りの地図として書かれている。それだからこそ、私たちの生活の必要にぴったりと結びついており、生活・・・ 宮本百合子 「合図の旗」
・・・ 縁側に出て顔を洗いながら、今朝急いで課長に出すはずの書類のあることを思い出す。しかし課長の出るのは八時三十分頃だから、八時までに役所へ行けば好いと思う。 そして頗る愉快げな、晴々とした顔をして、陰気な灰色の空を眺めている。木村を知・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・拘留場で横着を出すと、真っ暗い穴に入れられる。そんな時はツァウォツキイも「ああ、おれはなんと云う不しあわせものだろう」とこぼしている。 ある時ツァウォツキイの家で、また銭が一文もなくなった。ツァウォツキイはそれを恥ずかしく思った。そして・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・その危難にあったことが精密ではないが、薄々は忍藻にも聞えたので、さアそれが忍藻の心配の種になり、母親をつかまえて欝ぎ出すのでそこで前のとおり母親もそれを諭して励ましていた。「門前の小僧は習わぬ経を誦む」鍛冶屋の嫁は次第に鉄の産地を知る。・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・河は激しい音を立てて濁り出す。枯木は山の方から流れて来る。「雨、こんこん降るなよ。 屋根の虫が鳴くぞよ。」 灸は柱に頬をつけて歌を唄い出した。蓑を着た旅人が二人家の前を通っていった。屋根の虫は丁度その濡れた旅人の蓑のよう・・・ 横光利一 「赤い着物」
出典:青空文庫