・・・十銭芸者もまたその頃出現したものだが、しかしこの方は他の十銭何々のように全国を風靡した流行の産物ではない。十銭芸者――彼女はわずかに大阪の今宮の片隅にだけその存在を知られたはかない流行外れの職業婦人である。今宮は貧民の街であり、ルンペンの巣・・・ 織田作之助 「世相」
・・・が改作されて映画となって、再び出現したのもまた理由のないことではない。「不如帰」については、立入る必要はあるまい。第四章 日露戦争に関連して ─花袋の「一兵卒」、忠温の「肉弾」、龍之介の「将軍」 ・・・ 黒島伝治 「明治の戦争文学」
・・・とたんに今度は、いよいよ令嬢の出現だ。緑いろの着物を着て、はにかんで挨拶した。私は、その時はじめて、その正子さんにお目にかかったわけである。ひどく若い。そうして美人だ。私は友人の幸福を思って微笑した。「や、おめでとう。」いまに親友の細君・・・ 太宰治 「佳日」
・・・僕は、君たちの出現を待っていたのです。好人物と言われて笑われ、ばかと言われて指弾され、廃人と言われて軽蔑されても、だまってこらえて待っていた。どんなに、どんなに、待っていたか。」 言っているうちに涙がこぼれ落ちそうになったので、あわてて・・・ 太宰治 「花燭」
・・・なっていますし、きょうあたり会計をしてもらって、もし足りなかったら家へ電報を打たなければなるまい、ばかな事になったものだと、つくづく自分のだらし無さに呆れて、厭気がさしていた矢先に、霹靂の如くあなたが出現なさったので、それこそ、実感として「・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・今のドイツで一番高いゴチックの寺塔のあるという外には格別世界に誇るべき何物をも有たないらしいこの市名は偶然にこの科学者の出現と結び付けられる事になった。この土地における彼の幼年時代について知り得られる事実は遺憾ながら極めて少ない。ただ一つの・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・ 著者はこれにつづいて、天才を見付ける事の困難を論じ、また補助奨励と天才出現とは必ずしも並行しない事などを実例について論じている。そして一体天才の出現を無制限に望むのがいいか悪いかという根本問題に触れたところで、アインシュタインの独特な・・・ 寺田寅彦 「アインシュタインの教育観」
・・・ とにかく、わずかな季節の差違で、去年はなかったものが、今突然目の前に出現したように思われるのであった。不注意なわれわれ素人には花のない見知らぬ樹木はだいたい針葉樹と扁葉樹との二色ぐらいか、せいぜいで十種二十種にしか区別ができないのに、・・・ 寺田寅彦 「あひると猿」
・・・エレーンに八万四千の毛孔ありて、エレーンが八万四千壺の香油を注いで、日にその膚を滑かにするとも、潜めるエレーンは遂に出現し来る期はなかろう。 やがてわが部屋の戸帳を開きて、エレーンは壁に釣る長き衣を取り出す。燭にすかせば燃ゆる真紅の色な・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・べきを上げにかかると申すは手間のかかるを形容せんためなり、階段を上ること無慮四十二級、途中にて休憩する事前後二回、時を費す事三分五セコンドの後この偉大なる婆さんの得意なるべき顔面が苦し気に戸口にヌッと出現する、あたり近所は狭苦しきばかり也、・・・ 夏目漱石 「自転車日記」
出典:青空文庫