・・・台所に杯盤の音、戸口に見送りの人声、はや出立たんと吸物の前にすわれば床の間の三宝に枳殼飾りし親の情先ず有難く、この枳殼誤って足にかけたれば取りかえてよと云う人の情もうれし。盃一順。早く行て船室へ場を取りませねばと立上がれば婢僕親戚上り框に集・・・ 寺田寅彦 「東上記」
・・・ 断定的に帰宅を促した電文が、それから間もなく辰之助の家からお絹の家へ届いて、道太はにわかに出立を急ぐことになった。 支度をしに二階へあがると、お絹もついてきて、荷造りをしてくれた。「こんなものはバスケットがいいんでしょう」お絹・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・よほど遠くから出て来るものと見え、いつでも鞋に脚半掛け尻端打という出立で、帰りの夜道の用心と思われる弓張提灯を腰低く前で結んだ真田の三尺帯の尻ッぺたに差していた。縁日の人出が三人四人と次第にその周囲に集ると、爺さんは煙管を啣えて路傍に蹲踞ん・・・ 永井荷風 「伝通院」
・・・ 四十余年間の歴史を見ると、昔は理想から出立した教育が、今は事実から出発する教育に変化しつつあるのであります、事実から出発する方は、理想はあるけれども実行は出来ぬ、概念的の精神に依って人は成立する者でない、人間は表裏のあるものであるとし・・・ 夏目漱石 「教育と文芸」
・・・それについては少し学究めきますが、日本とか現代とかいう特別な形容詞に束縛されない一般の開化から出立してその性質を調べる必要があると考えます。御互いに開化と云う言葉を使っておって、日に何遍も繰返しているけれども、はたして開化とはどんなものだと・・・ 夏目漱石 「現代日本の開化」
・・・「それでその男が出立をする時細君が色々手伝って手荷物などを買ってやった中に、懐中持の小さい鏡があったそうだ」「ふん。君は大変詳しく調べているな」「なにあとで戦地から手紙が来たのでその顛末が明瞭になった訳だが。――その鏡を先生常に・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・食べるということを基点として出立した考である。所が米山の説を聞いて見ると、何だか空々漠々とはしているが、大きい事は大きいに違ない。衣食問題などは丸で眼中に置いていない。自分はこれに敬服した。そう言われて見ると成程又そうでもあると、其晩即席に・・・ 夏目漱石 「処女作追懐談」
・・・今日、人は実践ということを出立点と考える。実践と離れた実在というものはない。単に考えられたものは実在ではない。しかしまた真の実践は真の実在界においてでなければならない。然らざれば、それは夢幻に過ぎない。存在の前に当為があるなどいって、いわゆ・・・ 西田幾多郎 「デカルト哲学について」
・・・ただ余の出立の朝、君は篋底を探りて一束の草稿を持ち来りて、亡児の終焉記なればとて余に示された、かつ今度出版すべき文学史をば亡児の記念としたいとのこと、及び余にも何か書き添えてくれよということをも話された。君と余と相遇うて亡児の事を話さなかっ・・・ 西田幾多郎 「我が子の死」
・・・旅費の多き旅行なれば、千里の路も即日の支度にて出立すれども、子を育するに不便利なりとて、一夕の思案を費やして進退を考えたる者あるを聞かず。家を移すに豆腐屋と酒屋の遠近をば念を入れて吟味し、あるいは近来の流行にて空気の良否など少しく詮索する様・・・ 福沢諭吉 「教育の事」
出典:青空文庫