・・・「被告の所有者たる襟は没収する限りでないから、一応被告に下げ渡します」と、裁判長が云った。「あの差押えた品を渡せ」と云うや否や、押丁はおれに例の紙包みを持って来て渡した。 その時おれは気を失った。それから醒覚したのは、監獄の部屋の中・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・そしてそれを切り刻んで新しく組立てた「時空の世界像」をそこに安置した。それで重力の秘密は自明的に解釈されると同時に古い力学の暗礁であった水星運動の不思議は無理なしに説明され、光と重力の関係に対する驚くべき予言は的中した。もう一つの予言はどう・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・松原を切り拓いた立派な道路であった。「立派な道路ですな」「それああなた、道路はもう、町を形づくるに何よりも大切な問題ですがな」彼はちょっと嵩にかかるような口調で応えた。「もっともこの砂礫じゃ、作物はだめだからね」「いいえ、作・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・無論それが終局ではない、人類のあらん限り新局面は開けてやまぬものである。しかしながら一刹那でも人類の歴史がこの詩的高調、このエクスタシーの刹那に達するを得ば、長い長い旅の辛苦も償われて余あるではないか。その時節は必ず来る、着々として来つつあ・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・こんにゃくはこんにゃく芋を擦りつぶして、一度煮てからいろんな形に切り、それを水に一ト晩さらしといてあくをぬく。諸君がとんぼとりにつかうもちは、その芋をつぶすときに出来るおねばのことであるが、さてそのこんにゃく屋さんは、はたらき者の爺さんと婆・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
・・・ 根津の遊里は斯くの如く一時繁栄を極めたが、明治二十一年六月三十日を限りとして取払われ、深川洲崎の埋立地に移転を命ぜられた。娼家の跡は商舗または下宿屋の如きものとなったが、独八幡楼の跡のみ、其の庭園の向ヶ岡の阻崖に面して頗幽邃の趣をなし・・・ 永井荷風 「上野」
・・・わが知る限りにおいては、またわが了解し得たる限りにおいては(了解し得ざる論議は暫く措必ずしも非難すべき点ばかりはない。けれども自然主義もまた一つのイズムである。人生上芸術上、ともに一種の因果によって、西洋に発展した歴史の断面を、輪廓にして舶・・・ 夏目漱石 「イズムの功過」
・・・ニイチェほどに、矛盾を多分に有した複雑の思想家はなく、ニイチェほどに、残忍辛辣のメスをふるつて、人間心理の秘密を切りひらいた哲学者はない。ニイチェの深さは地獄に達し、ニイチェの高さは天に届く。いかなる人の自負心をもつてしても、十九世紀以来の・・・ 萩原朔太郎 「ニイチェに就いての雑感」
・・・ もうこれ以上飲めないと思って、バーを切り上げて来たんだから、銀銅貨取り混ぜて七八十銭もあっただろう。「うん、余る位だ。ホラ電車賃だ」 そこで私は、十銭銀貨一つだけ残して、すっかり捲き上げられた。「どうだい、行くかい」蛞蝓は・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・ 今日限りである、今朝が別れであると言ッた善吉の言葉は、吉里の心に妙にはかなく情なく感じて、何だか胸を圧えられるようだ。 冷遇て冷遇て冷遇抜いている客がすぐ前の楼へ登ッても、他の花魁に見立て替えをされても、冷遇ていれば結局喜ぶべきで・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
出典:青空文庫