・・・ 月あかりが斜にさしこんでいる道端の松の切株に二人は腰をかけた。目の先七八間の所は木の蔭で薄暗いがそれから向うは畑一ぱいに月がさして、蕎麦の花が際立って白い。「何というえい景色でしょう。政夫さん歌とか俳句とかいうものをやったら、こん・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・自分が一度犬をつれ、近処の林を訪い、切株に腰をかけて書を読んでいると、突然林の奥で物の落ちたような音がした。足もとに臥ていた犬が耳を立ててきっとそのほうを見つめた。それぎりであった。たぶん栗が落ちたのであろう、武蔵野には栗樹もずいぶん多いか・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・青年はかねてよくこの林の奥深く分け入り、切り株などに腰かけて日の光と風の力とに変わりゆく林の趣をめで楽しみたりければ、犬もまたこの林になずみけん、今日も先に立ちて走り入りぬ。 木の葉半ば落ちて大空の透かし見らるる林を秋霧立ちこむる朝訪わ・・・ 国木田独歩 「わかれ」
・・・緩慢な丘陵や、沼地や、高粱の切株が残っている畠があった。彼等は、そこを進んだ。いつのまにか、本隊のいる部落は、赭土の丘に、かくれて見えなくなった。淋しさと、心もとなさと、不安は、知らず知らず彼等を襲ってきた。だが彼等は、それを、顔にも、言葉・・・ 黒島伝治 「前哨」
・・・谷間には、稲の切株が黒くなって、そのまゝ残っていた。部落一帯の田畑は殆んど耕されていなかった。小作人は、皆な豚飼いに早替りしていた。 たゞ、小作地以外に、自分の田畑を持っている者だけが、そこへ麦を蒔いていた。それが今では、三尺ばかりに伸・・・ 黒島伝治 「豚群」
私は先夜、眠られず、また、何の本も読みたくなくて、ある雑誌に載っていたヴァレリイの写真だけを一時間も、眺めていた。なんという悲しい顔をしているひとだろう、切株、接穂、淘汰、手入れ、その株を切って、また接穂、淘汰、手入れ、し・・・ 太宰治 「豊島與志雄著『高尾ざんげ』解説」
・・・私は、ただ一人淋しく、森のはずれの切株に腰をかけて、かすかな空の微光の中に消えて行く絃の音の名残を追うている。 気がつくと、曲は終っている。そして、膝にのせた手のさきから、燃え尽した巻煙草の灰がほとりと落ちて、緑のカーペットに砕ける。・・・ 寺田寅彦 「秋の歌」
・・・ 月がさえて風の静かなこのごろの秋の夜に、三毛と玉とは縁側の踏み台になっている木の切り株の上に並んで背中を丸くして行儀よくすわっている。そしてひっそりと静まりかえって月光の庭をながめている。それをじっと見ているとなんとなしに幽寂といった・・・ 寺田寅彦 「ねずみと猫」
・・・藤野は他人の番の時には切り株に腰をかけたり草の上にねころんだりしていつものように考え込んでいるが、いよいよ自分の番になると急いで出て来て器械をのぞき、熱心に度盛りを読んでいるが、どういうものか時々とんでもない読み違いをする。ノートを・・・ 寺田寅彦 「花物語」
・・・嘗て初夏の夕に来り見た時、まだ苗であった秋花は霜枯れた其茎さえ悉く刈去られて切株を残すばかりとなっていた。そして庭の隅々からは枯草や落葉を燬く烟が土臭いにおいを園内に漲らせていた。 わたくしは友を顧みて、百花園を訪うのは花のない時節に若・・・ 永井荷風 「百花園」
出典:青空文庫