・・・枕上のしきを隔てて座を与えられた。初対面の挨拶もすんであたりを見廻した。四畳半と覚しき間の中央に床をのべて糸のように痩せ細った身体を横たえて時々咳が出ると枕上の白木の箱の蓋を取っては吐き込んでいる。蒼白くて頬の落ちた顔に力なけれど一片の烈火・・・ 寺田寅彦 「根岸庵を訪う記」
・・・要するに僕等は初対面の人を看る時先入主をなす僻見に捉えられないように自ら戒めている。殊に世人から売笑婦として卑しめられている斯くの如き職業の女に対しては、たとえ品性上の欠点が目に見えても、それには必由来があるだろうと、僕等は同情を以て之を見・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・これが余の長谷川君と初対面の時の感想である。 それから、幾日か立って、用が出来て社へ行った。汚い階子段を上がって、編輯局の戸を開けて這入ると、北側の窓際に寄せて据えた洋机を囲んで、四五人話しをしているものがある。ほかの人の顔は、戸を開け・・・ 夏目漱石 「長谷川君と余」
・・・そして漂然としたような話しぶりの裡に、敏感に自分の動きを相手との間から感じとってゆこうとする特色も初対面の印象に刻まれた。丁度どこかへ出かけるときで、小熊さんも一緒に程なく家を出た。 それから何年経っただろう。次ぎに小熊さんに会ったのは・・・ 宮本百合子 「旭川から」
・・・ 髪をちょっと丸めたままの姿で、客間に行って見ると髪を長くのばし、張った肩に銘仙の羽織を着た青年が後を見せて立って居る。 初対面の挨拶をし、自分は「どうぞおかけ下さいまし」と上座に当る椅子を進めた。 はあ、と云って立って・・・ 宮本百合子 「或日」
・・・何となく知ろうと努め、一方用心しているように感ぜられ、自分の私かな期待を裏切って、初対面らしい圧苦しさが漂った。彼の妻で、知名なダンサーであるラタン・デビーのことなどをきいているところへ、女中が名刺を取次ぎ、一人の客を案内して来た。その顔を・・・ 宮本百合子 「思い出すこと」
・・・ら、改めてそっとお孝さんのお顔を眺め、ふくよかな全体の感じにあの美しい襟もとと共通なものを知りながら、其でもやっぱり、あのひとがとりもなおさずこの方という工合にはぴったりと会得出来ず、今の姿で、環境で初対面の思いがするのを不思議に考えるので・・・ 宮本百合子 「白藤」
・・・これは本初対面の客ではない。打絶えていただけの事である。 芥川氏のいわく。香以には姉があった。その婿が山王町の書肆伊三郎である。そして香以は晩年をこの夫婦の家に送った。 伊三郎の女を儔と云った。儔は芥川氏に適いた。龍之介さんは儔の生・・・ 森鴎外 「細木香以」
・・・ 初対面の挨拶が済んで私は来意を尋ねた。この人の事を私はF君と書く。F君の言う所は頗る尋常に異なるものであった。君は私とは同じ石見人であるが、私は津和野に生れたから亀井家領内の人、君は所謂天領の人である。早くからドイツ語を専修しようと思・・・ 森鴎外 「二人の友」
・・・高田は梶に栖方の名を云って初対面の紹介をした。 学帽を脱いだ栖方はまだ少年の面影をもっていた。街街の一隅を馳け廻っている、いくら悪戯をしても叱れない墨を顔につけた腕白な少年がいるものだが、栖方はそんな少年の姿をしている。郊外電車の改札口・・・ 横光利一 「微笑」
出典:青空文庫