・・・ この映画を見た前夜にグスタフ・マーラーの第五交響楽を聞いた。あまりにも複雑な機巧に満ちたこの大曲に盛りつぶされ疲らされたすぐあとであったので、この単純なしかし新鮮なフィルムの音楽がいっそうおもしろく聞かれたのかもしれない。そうしてその・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・ この団体がここを引上げるという前夜のお別れの集りで色々の余興の催しがあったらしい。大広間からは時々賑やかな朗らかな笑声が聞こえていた。数分間ごとに爆笑と拍手の嵐が起こる。その笑声が大抵三声ずつ約二、三秒の週期で繰返されて、それでぱった・・・ 寺田寅彦 「高原」
・・・しかし過去を語るのは、覚めた後前夜の夢を尋ねて、これを人に向って説くのと同じである。 鴎外先生が『私が十四、五歳の時』という文に、「過去の生活は食ってしまった飯のようなものである。飯が消化せられて生きた汁になって、それから先の生活の土台・・・ 永井荷風 「十六、七のころ」
・・・ 安岡は前夜の睡眠不足でひどく疲れていたので、自習をいいかげんに切り上げて早く床に入った。そして、妙な素振りをする深谷の来る前に眠っちまおうと決心した。「でなけりゃ、とてもやり切れない」 と思った。だが、そう思えば思うほど、なお・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・余輩これを保証すること能わず。前夜の酒宴、深更に及びて、今朝の眠り、八時を過ぎ、床の内より子供を呼び起こして学校に行くを促すも、子供はその深切に感ずることなかるべし。妓楼酒店の帰りにいささかの土産を携えて子供を悦ばしめんとするも、子供はその・・・ 福沢諭吉 「教育の事」
・・・ずっとモスクワから乗りつづけて来たものは長い旅行が明日は終ろうとする前夜の軽い亢奮で。新しく今日乗り込んで来た連中は、列車ではじめての夕飯をたべながら。――(汽車の食堂は普通の食堂シベリアに雪はあるかと訊いた男が通路のむこう側のテーブルでや・・・ 宮本百合子 「新しきシベリアを横切る」
・・・けれども、藤村氏は、どういう好尚から、その出発の前夜に勘当していた蓊助を旅館によんで、勘気をゆるしたのであったろう。藤村氏自身の青年時代を考えいろいろすると、勘当そのものが解せないようにもある。微妙な事情があって、そういう形式がとられたとし・・・ 宮本百合子 「鴎外・漱石・藤村など」
・・・ 隣家の柄本又七郎は数馬の手のものが門をあける物音を聞いて、前夜結び縄を切っておいた竹垣を踏み破って、駈け込んだ。毎日のように往き来して、隅々まで案内を知っている家である。手槍を構えて台所の口から、つとはいった。座敷の戸を締め切って、籠・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・この現象は、丁度彼がその前夜、彼自身の平民の腹の田虫をハプスブルグの娘に見せた失敗を、再び一時も早く取り返そうとしているかのように敏活であった。殊に彼はルイザを娶ってから彼に皇帝の重きを与えた彼の最も得意とする外征の手腕を、まだ一度も彼女に・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
・・・父が猟に出かける日の前夜は、定って母は父に小言をいった。「もう殺生だけはやめて下さいよ。この子が生れたら、おやめになると、あれほど固く仰言ったのに、それにまた――」 母が父と争うのは父が猟に出かけるときだけで、その間に坐っていた私は・・・ 横光利一 「洋灯」
出典:青空文庫