・・・無造作な髪、嵐にあがる前髪の下の美しい額。だが自分から銅貨を受取ったときの彼女の悲しそうな目なざしは何だろう。道々いろいろなことが考えられる。理想的社会の建設――こうしたことまで思い及ぼされるようでなければならぬ。 学生時代の恋愛はその・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・じへ口移しの酒が媒妁それなりけりの寝乱れ髪を口さがないが習いの土地なれば小春はお染の母を学んで風呂のあがり場から早くも聞き伝えた緊急動議あなたはやと千古不変万世不朽の胸づくし鐘にござる数々の怨みを特に前髪に命じて俊雄の両の膝へ敲きつけお前は・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・優しい前髪と、すらりとした女らしい背とを持った子供だった。彼女が嫁いて来たばかりの頃は、大塚さんは湯島の方にもっと大きな邸を持っていたが、ある関係の深い銀行の破産から、他に貸してあったこの根岸の家の方へ移り住んだのだ。そういう時に成ると、お・・・ 島崎藤村 「刺繍」
・・・時には、末子が茶の間の外のあたたかい縁側に出て、風に前髪をなぶらせていることもある。白足袋はいた娘らしい足をそこへ投げ出していることがある。それが私の部屋からも見える。私は自分の考えることをこの子にも言って置きたいと思って、一生他人に依るよ・・・ 島崎藤村 「分配」
・・・やや旧派の束髪に結って、ふっくりとした前髪を取ってあるが、着物は木綿の縞物を着て、海老茶色の帯の末端が地について、帯揚げのところが、洗濯の手を動かすたびにかすかに揺く。しばらくすると、末の男の児が、かアちゃんかアちゃんと遠くから呼んできて、・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・を高く、長襦袢の袖口はこの時下へと滑ってその二の腕の奥にもし入黒子あらば見えもやすると思われるまで、両肱を菱の字なりに張出して後の髱を直し、さてまた最後には宛ら糸瓜の取手でも摘むがように、二本の指先で前髪の束ね目を軽く持ち上げ、片手の櫛で前・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・――いそいでもう一方を見たら、電線は鉄道線路を越えて、再びヒンデンブルグの前髪のような黒い密林のかなたへ遠くツグミの群がとび立った。今シベリアを寂しい曠野と誰が云うことが出来よう。 エカテリンブルグ=スウェルドロフスキーを通過。モスクワ・・・ 宮本百合子 「新しきシベリアを横切る」
・・・ 彼女は、優しく前髪を傾けて答えた。「越後でございます」「東京には、其じゃあ、親類でもあるの?」 娘は、唇をすぼめ、悩ましそうに一寸肩をゆすった。「――親戚はございませんですが……」 黒目がちの瞳で顔をじっと見られ、・・・ 宮本百合子 「或る日」
・・・ その頃大変流行った、前髪を切下げた束髪にして、真赤な珊瑚の大きな簪を差した友子さんは、紅をつけた唇を曲げながら、「貴女はどうお思いになって?」と、政子さんの返事を求めました。 子供の時から、姉妹のように暮している政子さんと・・・ 宮本百合子 「いとこ同志」
・・・長袖の紫矢がすりに袴をはき前髪をふくらませた長い下げ髪をたらし、手入れのよい靴をはいた十八九の娘たちは、一目みて育ちのよさがわかるとともに、何とだれもかれも大人っぽく、遊戯なんか思いもかけず、もう人生の重大さを知っているという様子をしていた・・・ 宮本百合子 「女の学校」
出典:青空文庫