・・・ 何と言っても幼い両人は、今罪の神に翻弄せられつつあるのであれど、野菊の様な人だと云った詞についで、その野菊を僕はだい好きだと云った時すら、僕は既に胸に動悸を起した位で、直ぐにそれ以上を言い出すほどに、まだまだずうずうしくはなっていない・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・おとよはわが胸の動悸をまで聞きとめた。九十九里の波の遠音は、こういう静かな夜にも、どうーどうーどうーどうーと多くの人の睡りをゆすりつつ鳴るのである。さすがにおとよは落ちつきかね、われ知らず溜息をつく。「おとよさん」 一こえきわめて幽・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・彼は二間ほどもない梯子を登り降りするのに胸の動悸を感じた。屋根の端の方へは怖くて近寄れもせなかった。その男は汚ない褌など露わして平気でずぶずぶと凹む軒端へつくばっては、新しい茅を差していた。 彼は屋根の棟に腰かけて、ほかほかと暖かい日光・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・そして咳がふいに心臓の動悸を高めることがあるのは吉田も自分の経験で知っていた。それで納得のいった吉田ははじめてそうではない旨を返事すると、その女はその返事には委細かまわずに、「その病気に利くええ薬を教えたげまひょか」 と、また脅かす・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・ 子どもは顔をおかあさんの胸にうずめて、心配で胸の動悸は小時計のようにうちました。「私こわい」 と小さな声で言います。「天に在します神様――お助けください」 とおかあさんはいのりました。 と黒鳥の歌が松の木の間で聞こ・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・多分胸の動悸を象徴するためであろうか、機関車のような者を舞台裏で聞かせるがあれは少し変である。 容疑者の容疑をもう一段強めるために、もう一つのエピソードを導入したいので次のような仕かけを考えたものである。この挿話の主人公夫婦として現われ・・・ 寺田寅彦 「初冬の日記から」
・・・自分にも聞かれる程波打った動悸が五分十分と経つうちにだんだん低くなって彼は漸く忌々しさを意識した。そうして彼は西瓜は赤が居ないから盗まれたと考えた。赤が生きて居たら屹度吠えたに相違ないと思った。そうして彼は赤を殺して畢ったことが心外で胸が一・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・ と恐怖に胸を動悸しながら、思わず私が叫んだ時、或る小さな、黒い、鼠のような動物が、街の真中を走って行った。私の眼には、それが実によくはっきりと映像された。何かしら、そこには或る異常な、唐突な、全体の調和を破るような印象が感じられた。・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・ 冷遇ながら産を破らせ家をも失わしめたかと思うと、吉里は空恐ろしくなッて、全身の血が冷え渡ッたようで、しかも動悸のみ高くしている。「お神さんはどうなすッたんです」と、ややあって問ねた吉里の声も顫えた。「嚊かね」と、善吉はしばらく・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・今思い出しても胸が動悸動悸しますの。況して若子さんの喜び様ッてありませんでした。御二人手を御取合で互に涙含んでらッした御様子てッたら、私も戦地へお行でなさる兄さんが、急に欲しくなった位でした。『美子さん、勉強なさいよ。勉強して女の偉い人・・・ 広津柳浪 「昇降場」
出典:青空文庫