・・・そうしてその人が永い滞在の後に、なつかしい想いを残してその下宿を去る日になって、主婦の方から差出した勘定書を見ると、毀れた洗面鉢の代価がちゃんとついていたという話がある。 またある留学生の仲間がベルリンのTという料理屋で食事をした時に、・・・ 寺田寅彦 「ある日の経験」
・・・小柄なおひろはもう三十ぐらいになっている勘定であった。「お久しぶりですね」おひろは瘠せた膝をして、ぴったりとそこに坐った。「相変らず瘠せているね。やっぱり出てるんだね」道太は浅黒いその顔を見ながら話しかけた。「ええ、効性がないも・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・銭勘定は会計、受取は請求というのだったな。」 唖々子の戯るるが如く、わたしはやがて女中に会計なるものを命じて、倶に陶然として鰻屋の二階を下りると、晩景から電車の通らない築地の街は、見渡すかぎり真白で、二人のさしかざす唐傘に雪のさらさらと・・・ 永井荷風 「十日の菊」
・・・四千万の愚物と天下を罵った彼も住家には閉口したと見えて、その愚物の中に当然勘定せらるべき妻君へ向けて委細を報知してその意向を確めた。細君の答に「御申越の借家は二軒共不都合もなき様被存候えば私倫敦へ上り候迄双方共御明け置願度若し又それ迄に取極・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・昨夜の勘定を済まして、今日一日遊ばれるかしら。遊ばれるだけにして、どうか置いて下さい。一文も残らないでもいい。今晩どッかへ泊るのに、三十銭か四十銭も残れば結構だが……。何、残らないでもいい。ねえ、吉里さん、そうしといて下さいな」と、善吉は顔・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・家厳が力をつくして育し得たる令息は、篤実一偏、ただ命これしたがう、この子は未だ鳥目の勘定だも知らずなどと、陽に憂てその実は得意話の最中に、若旦那のお払いとて貸座敷より書附の到来したる例は、世間に珍しからず。 人の智恵は、善悪にかかわらず・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
・・・起きな。勘定を払うんだよ。さあ。」「キーイ、キーイ、クヮア、あ、痛い、誰だい。ひとの頭を撲るやつは。」「勘定を払いな。」「あっ、そうそう。勘定はいくらになっていますか。」「お前のは三百四十二杯で、八十五銭五厘だ。どうだ。払え・・・ 宮沢賢治 「カイロ団長」
・・・働く婦人が、まっさきに勘定されるのはクビキリの場合だけである。これは国鉄にはっきり現れている。こういう日本の政府のやりかたは、変えられなければならないものである。〔一九四六年八月〕 宮本百合子 「青田は果なし」
・・・しかし物質があって、元子から組み立ててあるかのように考えなくては、元子量の勘定が出来ないから、化学は成り立たない。精神学の方面はどうだ。自由だの、霊魂不滅だの、義務だのは存在しない。その無いものを有るかのように考えなくては、倫理は成り立たな・・・ 森鴎外 「かのように」
・・・ 近代文化の総勘定。それが現に行なわれつつあるのである。そうしてこの二、三年の間にその大体の計算ができあがるのである。近代文化が多種多様な内容を持っていただけに、その計算の結果も定めて複雑なものだろう。・・・ 和辻哲郎 「世界の変革と芸術」
出典:青空文庫