・・・君は女も物体だと云うことを知っているかい?」「動物だと云うことは知っているが。」「動物じゃない。物体だよ。――こいつは僕も苦心の結果、最近発見した真理なんだがね。」「堀川さん、宮本さんの云うことなどを真面目に聞いてはいけませんよ・・・ 芥川竜之介 「寒さ」
・・・やれ×××××とか、やれ×××××だとか、いろんな勿体をつけやがるだろう。だがそんな事は嘘っ八だ。なあ、兄弟。そうじゃねえか?」 堀尾一等卒にこう云われたのは、これも同じ中隊にいた、小学校の教師だったと云う、おとなしい江木上等兵だった。・・・ 芥川竜之介 「将軍」
・・・御手をおあげ下さいまし。御手をおあげ下さいまし。勿体のうございます。」 彼は、修理の手をとって、無理に畳から離させた。そうして泣いた。すると、泣くに従って、彼の心には次第にある安心が、溢れるともなく、溢れて来る。――彼は涙の中に、佐渡守・・・ 芥川竜之介 「忠義」
・・・ 時に、勿体ないが、大破落壁した、この御堂の壇に、観音の緑髪、朱唇、白衣、白木彫の、み姿の、片扉金具の抜けて、自から開いた廚子から拝されて、誰が捧げたか、花瓶の雪の卯の花が、そのまま、御袖、裳に紛いつつ、銑吉が参らせた蝋燭の灯に、格天井・・・ 泉鏡花 「神鷺之巻」
・・・「はて、勿体もねえ、とんだことを言うなっす。」 と両つ提の――もうこの頃では、山の爺が喫む煙草がバットで差支えないのだけれど、事実を報道する――根附の処を、独鈷のように振りながら、煙管を手弄りつつ、ぶらりと降りたが、股引の足拵えだし・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・ その靴は霜のいと夜深きに、空谷を鳴らして遠く跫音を送りつつ、行く行く一番町の曲がり角のややこなたまで進みけるとき、右側のとある冠木門の下に踞まれる物体ありて、わが跫音に蠢けるを、例の眼にてきっと見たり。 八田巡査はきっと見るに、こ・・・ 泉鏡花 「夜行巡査」
・・・ そんなにくどくどと勿体をつけられて借りると、私は飛ぶようにして家へかえり、天辰の主人がどうしてこれを手に入れたのか、案外道楽気のある男だと思いながら、読み出した。謄写刷りの読みにくい字で、誤字も多かったが、八十頁余りのその記録をその夜・・・ 織田作之助 「世相」
・・・「何さ、勿体振って……」 そう云いながら、二階の荒木の部屋へ随って上ると、荒木はいきなり安子を抱きしめた。荒木の息は酒くさかった。安子は声も立てずに、じっとしていた。そして未知の世界を知ろうとする強烈な好奇心が安子の肩と胸ではげしく・・・ 織田作之助 「妖婦」
・・・ 私は物体が二つに見える酔っ払いのように、同じ現実から二つの表象を見なければならなかったのだ。しかもその一方は理想の光に輝かされ、もう一方は暗黒の絶望を背負っていた。そしてそれらは私がはっきりと見ようとする途端一つに重なって、またもとの退屈・・・ 梶井基次郎 「筧の話」
・・・認識において自己以外の他の物体の存在が他人の存在の確実によって媒介されるように、道徳も自己のみから引き出すことは出来ず、他人の存在に依従している。我と汝とが対立して初めてモラールがあり、ジッテがある。この生活共同態の思想は前にも述べた。道徳・・・ 倉田百三 「学生と教養」
出典:青空文庫