・・・それは邯鄲の歩みを学ばないうちに寿陵の歩みを忘れてしまい、蛇行匍匐して帰郷したと云う「韓非子」中の青年だった。今日の僕は誰の目にも「寿陵余子」であるのに違いなかった。しかしまだ地獄へ堕ちなかった僕もこのペン・ネエムを用いていたことは、――僕・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・それよりまた梯子を上り、百万遍の念珠、五百羅漢、弘法大師の護摩壇、十六善神などいうを見、天の逆鉾、八大観音などいうものあるあたりを経て、また梯子を上り、匍匐うようにして狭き口より這い出ずれば、忽ち我眼我耳の初めてここに開けしか、この雲行く天・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・ 両手で頬杖しながら匍匐臥にまだ臥たる主人、懶惰にも眼ばかり動かして一眼見しが、身体はなお毫も動かさず、「日瓢さんか、ナニ風邪じゃあねえ、フテ寝というのよ。まあ上るがいい。とは云いたれど上りてもらいたくも無さそうな顔なり。「・・・ 幸田露伴 「貧乏」
・・・そして前後左右に匍匐する松の幹の間に立ってその姿に見とれた時、幾年間全く忘れ果ててしまった霊廟の屋根と門とに心付いたのである。しかしその折にはまだ裏手の通用門から拝観の手続きをなすべき案内をも知らなかったので、自分は秋の夜の静寂の中に畳々と・・・ 永井荷風 「霊廟」
・・・当時若し社会の秩序云々に躊躇したらんには、吾々日本国民は今日尚お門閥の下に匍匐することならん。左れば今婦人をして婦人に至当なる権利を主張せしめ、以て男女対等の秩序を成すは、旧幕府の門閥制度を廃して立憲政体の明治政府を作りたるが如し。政治に於・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・すめらぎの稀の行幸御供する君のさきはひ我もよろこぶ天使のはろばろ下りたまへりける、あやしきしはぶるひ人どもあつまりゐる中にうちまじりつつ御けしきをがみ見まつる隠士も市の大路に匍匐ならびをろがみ奉る雲の上人天皇の・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・しかし人の話に、壮烈な進撃とは云っても、実は土嚢を翳して匍匐して行くこともあると聞いているのを思い出す。そして多少の興味を殺がれる。自分だってその境に身を置いたら、土嚢を翳して匍匐することは辞せない。しかし壮烈だとか、爽快だとかいう想像は薄・・・ 森鴎外 「あそび」
出典:青空文庫