・・・汚い階子段を上がって、編輯局の戸を開けて這入ると、北側の窓際に寄せて据えた洋机を囲んで、四五人話しをしているものがある。ほかの人の顔は、戸を開けるや否やすぐ分ったが、たった一人余に背中を向けて椅子に腰をおろして、鼠色の背広を着て、長い胴を椅・・・ 夏目漱石 「長谷川君と余」
・・・ その湖の岸の北側には屠殺場があって、南側には墓地があった。 学問は静かにしなけれゃいけない。ことの標本ででもあるように、学校は静寂な境に立っていた。 おまけに、明治が大正に変わろうとする時になると、その中学のある村が、栓を抜い・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・今度爆発すれば、たぶん山は三分の一、北側をはねとばして、牛やテーブルぐらいの岩は熱い灰やガスといっしょに、どしどしサンムトリ市におちてくる。どうでも今のうちに、この海に向いたほうへボーリングを入れて傷口をこさえて、ガスを抜くか熔岩を出させる・・・ 宮沢賢治 「グスコーブドリの伝記」
・・・ その時野原の北側に畑を有っている平二がきせるをくわえてふところ手をして寒そうに肩をすぼめてやって来ました。平二は百姓も少しはしていましたが実はもっと別の、人にいやがられるようなことも仕事にしていました。平二は虔十に云いました。「や・・・ 宮沢賢治 「虔十公園林」
・・・〔尤も向うの杉のついているところは北側でこっちは南と東です。その関係もありますがそうでなくてもこっちは北側でも杉やひのきは生えません。あすこの崖で見てもわかります。この山と地質は同じです。ただ北側なため雑木が少しはよく育ってます。〕いい・・・ 宮沢賢治 「台川」
・・・日の当らない北側だけが病室にあてられているときいて、私は憎らしい気がしました。四年間に二十七名の党員たちが死んだのだそうです。よくバスの車掌さんなんかで警察へつかまると、スパイが迚も拷問し、しかも女として堪えられないような目にあわす話をきき・・・ 宮本百合子 「共産党公判を傍聴して」
・・・ 十一月十一日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より〕 十一月十一日 もう北側の障子をあけると冬の風が吹きこみます。三十一日に書いて下すって以来、御無沙汰? 風邪をお引きになったのではないでしょうね。 私は二三日来・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・その家は、ひろ子の弟の家の北側が垣根一重のところまで焼けたとき、焼けて跡かた無くなっていた。 自由になって、まだ十日余りしかたたない重吉のとりなし万端に、ひろ子のこころを動かしてやまないものがあった。 十四日の朝、二人がやっと口をき・・・ 宮本百合子 「風知草」
出典:青空文庫