・・・この匂いを嗅ぐと、少年時代に遊び歩いた郷里の北山の夏の日の記憶が、一度に爆発的に甦って来るのを感じる。 宿に落着いてから子供等と裏の山をあるいていると、鶯が鳴き郭公が呼ぶ。落葉松の林中には蝉時雨が降り、道端には草藤、ほたるぶくろ、ぎぼし・・・ 寺田寅彦 「浅間山麓より」
・・・ 四五人、五六人という群れになって北山おろしの木枯らしに吹かれながら軒並みをたずねて玄関をおとずれ、口々にわざと妙な作り声をして「カイツットーセ」という言葉を繰り返す。「粥釣りをさせてください」という意味の方言なのである。すると家々では・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・ 重兵衛さんのお伽噺のレペルトワルはそう沢山にはなかったようである。北山の法経堂に現れる怪火の話とか、荒倉山の狸が三つ目入道に化けたのを武士が退治した話とか、「しばてん」と相撲を取る話。「えんこう」(河童を釣る話とかいう種類のものが多か・・・ 寺田寅彦 「重兵衛さんの一家」
・・・そのころわたくしどもは北山の掘立小屋同様の所に寝起きをいたして、紙屋川の橋を渡って織場へ通っておりましたが、わたくしが暮れてから、食べ物などを買って帰ると、弟は待ち受けていて、わたくしを一人でかせがせてはすまないすまないと申しておりました。・・・ 森鴎外 「高瀬舟」
出典:青空文庫