北風を背になし、枯草白き砂山の崕に腰かけ、足なげいだして、伊豆連山のかなたに沈む夕日の薄き光を見送りつ、沖より帰る父の舟遅しとまつ逗子あたりの童の心、その淋しさ、うら悲しさは如何あるべき。 御最後川の岸辺に茂る葦の枯れ・・・ 国木田独歩 「たき火」
・・・あるいは畑のかなたの萱原に身を横たえ、強く吹く北風を、積み重ねた枯草で避けながら、南の空をめぐる日の微温き光に顔をさらして畑の横の林が風にざわつき煌き輝くのを眺むべきか。あるいはまたただちにかの林へとゆく路をすすむべきか。自分はかくためらっ・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
多摩川の二子の渡しをわたって少しばかり行くと溝口という宿場がある。その中ほどに亀屋という旅人宿がある。ちょうど三月の初めのころであった、この日は大空かき曇り北風強く吹いて、さなきだにさびしいこの町が一段と物さびしい陰鬱な寒・・・ 国木田独歩 「忘れえぬ人々」
・・・ 鞠子は大工さんの家の娘にも劣らないほど、いたずらに成った。北風が来れば、槲の葉が直ぐ鳴るような調子で、「畜生ッ。打つぞ」 髪を振って、娘は遊び友達の方へ走って行った。 島崎藤村 「岩石の間」
・・・そのあくる朝、尾野間から二里ほど西の湯泊という村の沖のかなたに、きのうの船らしいものが見えたが、強い北風をいっぱい帆にはらみつつ、南をさしてみるみる疾航し去った。 その日のことである。屋久島の恋泊村の藤兵衛という人が、松下というとこ・・・ 太宰治 「地球図」
・・・の横腹を舐めて、深さ、さあ五百ひろはねえずらよ、とかこの子の無心の答えに打たれ、われと、それから女、凝然の恐怖、地獄の底の細き呼び声さえ、聞えて来るような心地、死ぬることさえ忘却し果てた、あの夜の寒い北風が、この一葉のハガキの隅からひょうひ・・・ 太宰治 「二十世紀旗手」
・・・「風のせいだ。北風だから、右へ吹きつけるんだ」「樹が多いから、方角が分らない。もう少し登ったら見当がつくだろう」 しばらくは雑木林の間を行く。道幅は三尺に足らぬ。いくら仲が善くても並んで歩行く訳には行かぬ。圭さんは大きな足を悠々・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・殺される支那人たちは、笛のような悲声をあげて、いつも北風の中で泣き叫んでいた。チャンチャン坊主は、無限の哀傷の表象だった。 陸軍工兵一等卒、原田重吉は出征した。暗鬱な北国地方の、貧しい農家に生れて、教育もなく、奴隷のような環境に育った男・・・ 萩原朔太郎 「日清戦争異聞(原田重吉の夢)」
・・・ 当時決死の士を糾合して北海の一隅に苦戦を戦い、北風競わずしてついに降参したるは是非なき次第なれども、脱走の諸士は最初より氏を首領としてこれを恃み、氏の為めに苦戦し氏の為めに戦死したるに、首領にして降参とあれば、たとい同意の者あるも、不・・・ 福沢諭吉 「瘠我慢の説」
・・・きっとここから落ちればすぐ北風が空へつれてってくれるだろうね。」「ぼくは北風じゃないと思うんだよ。北風はしんせつじゃないんだよ。ぼくはきっとからすさんだろうと思うね。」「そうだ。きっとからすさんだ。からすさんはえらいんだよ。ここから・・・ 宮沢賢治 「いちょうの実」
出典:青空文庫