・・・こうして片づけられていく焼けあとには、片はしからどんどんかり小屋をたてて、もとの商ばいにかえる人々もあり、十一月末にはすべてで四万以上の小屋がけが出来、十七万人の人々がはいりました。 小学校は全市で百九十六校あったのが百十八校まで焼け、・・・ 鈴木三重吉 「大震火災記」
・・・九月、十月、十一月、御坂の寒気堪えがたくなった。あのころは、心細い夜がつづいた。どうしようかと、さんざ迷った。自分で勝手に、自分に約束して、いまさら、それを破れず、東京へ飛んで帰りたくても、何かそれは破戒のような気がして、峠のうえで、途方に・・・ 太宰治 「I can speak」
去年の十月だったか、十一月だったか、それさえどうしても思い出せない程にぼんやりした薄暗がりの記憶の中から、やっと手捜りに拾い出した、きれぎれの印象を書くのであるから、これを事実と云えば、ある意味では、やはり一種の事実である・・・ 寺田寅彦 「議会の印象」
・・・明後日が初酉の十一月八日、今年はやや温暖く小袖を三枚重襲るほどにもないが、夜が深けてはさすがに初冬の寒気が感じられる。少時前報ッたのは、角海老の大時計の十二時である。京町には素見客の影も跡を絶ち、角町には夜を警めの鉄棒の音も聞える。・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・ 明治卅四年十一月六日灯下ニ書ス東京 子規 拝 倫敦ニテ 漱石 兄 此手紙は美濃紙へ行書でかいてある。筆力は垂死の病人とは思えぬ程慥である。余は此手紙を見る度に何だか故人に対して済まぬ事をしたような気がする。書き・・・ 夏目漱石 「『吾輩は猫である』中篇自序」
・・・ 明後日が初酉の十一月八日、今年はやや温暖かく小袖を三枚重襲るほどにもないが、夜が深けてはさすがに初冬の寒気が身に浸みる。 少時前報ッたのは、角海老の大時計の十二時である。京町には素見客の影も跡を絶ち、角町には夜を警めの鉄棒の音も聞・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・一九二五、十一月十日。今日実習が済んでから農舎の前に立ってグラジオラスの球根の旱してあるのを見ていたら武田先生も鶏小屋の消毒だか済んで硫黄華をずぼんへいっぱいつけて来られた。そしてやっぱり球根を見ていられたがそこから・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・〔一九四六年十一月〕 宮本百合子 「明日咲く花」
・・・ 長崎に着いたのは十一月八日の朝である。舟引地町の紙屋と云う家に泊って、町年寄福田某に尋人の事を頼んだ。ここで聞けば、勧善寺の客僧はいよいよ敵らしく思われる。それは紀州産のもので、何か人目を憚るわけがあると云って、門外不出で暮していると・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
・・・それは大体十一月三日の前後で、四、五日の間、その盛観が続いた。特に、夕日が西に傾いて、その赤い光線が樹々の紅葉を照らす時の美しさは、豪華というか、華厳というか、実に大したものだと思った。しかしその年の紅葉がそういうふうに出来がよいということ・・・ 和辻哲郎 「京の四季」
出典:青空文庫