・・・それは九日に手向けたらしい寒菊や南天の束の外に何か親しみの持てないものだった。K君はわざわざ外套を脱ぎ、丁寧にお墓へお時宜をした。しかし僕はどう考えても、今更恬然とK君と一しょにお時宜をする勇気は出悪かった。「もう何年になりますかね?」・・・ 芥川竜之介 「年末の一日」
・・・……勢はさりながら、もの凄いくらい庭の雨戸を圧して、ばさばさ鉢前の南天まで押寄せた敵に対して、驚破や、蒐れと、木戸を開いて切って出づべき矢種はないので、逸雄の面々歯噛をしながら、ひたすら籠城の軍議一決。 そのつもりで、――千破矢の雨滴と・・・ 泉鏡花 「第二菎蒻本」
・・・ 火を避けて野宿しつつ、炎の中に飛ぶ炎の、小鳥の形を、真夜半かけて案じたが、家に帰ると、転げ落ちたまま底に水を残して、南天の根に、ひびも入らずに残った手水鉢のふちに、一羽、ちょんと伝っていて、顔を見て、チイと鳴いた。 後に、密と、谷・・・ 泉鏡花 「二、三羽――十二、三羽」
・・・ それは、粗末だけれど、大きな鉢に植えてある南天であります。もう、幾日も水をやらなかったとみえて、根もとの土は白く乾いていました。紅みがかった、光沢のある葉がついていたのであろうけれど、ほとんど落ちてしまい、また、美しい、ぬれたさんご珠・・・ 小川未明 「おじいさんが捨てたら」
・・・焼惣本家鳥屋市兵衛本舗の二軒が隣合せに並んでいて、どちらが元祖かちょっとわからぬが、とにかくどちらもいもりをはじめとして、虎足、縞蛇、ばい、蠑螺、山蟹、猪肝、蝉脱皮、泥亀頭、手、牛歯、蓮根、茄子、桃、南天賓などの黒焼を売っているのだ。御寮人・・・ 織田作之助 「大阪発見」
・・・そんな吉田にはいつも南天の赤い実が眼の覚めるような刺戟で眼についた。また鏡で反射させた風景へ望遠鏡を持って行って、望遠鏡の効果があるものかどうかということを、吉田はだいぶんながい間寝床のなかで考えたりした。大丈夫だと吉田は思ったので、望遠鏡・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・昨年の夏には、玄関の傍に南天燭を植えてやった。それで屋賃が十八円である。高すぎるとは思わぬ。二十四五円くらい貰いたいのであるが、駅から少し遠いゆえ、そうもなるまい。高すぎるとは思わぬ。それでも一年、ためている。あの家の屋賃は、もともと、そっ・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・あとでひとりで楽しまむものと、机の引き出し、そっと覗いてみたときには、溶けてしまって、南天の赤い目玉が二つのこっていたという正吉の失敗とかいう漫画をうちの子供たち読んでいたが、美しい追憶も、そんなものだよ、パッション失わぬうちに書け、鉄は赤・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・帰りたい、今からでも帰りたいと便所の口の縁へ立ったまま南天の枝にかかっている紙のてるてる坊さんに祈るように思う。雨の日の黄昏は知らぬまに忍び足で軒に迫ってはや灯ともしごろのわびしい時刻になる。家の内はだんだんにぎやかになる。はしゃいだ笑声な・・・ 寺田寅彦 「竜舌蘭」
・・・片側は人の歩むだけの小径を残して、農家の生垣が柾木や槙、また木槿や南天燭の茂りをつらねている。夏冬ともに人の声よりも小鳥の囀る声が耳立つかと思われる。 生垣の間に荷車の通れる道がある。 道の片側は土地が高くなっていて、石段をひかえた・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
出典:青空文庫