・・・私はまた洗練された、しかしどれもこれも単純な味しかもたない料理をしばしば食べた。豪華な昔しの面影を止めた古いこの土地の伝統的な声曲をも聞いた。ちょっと見には美しい女たちの服装などにも目をつけた。 この海岸も、煤煙の都が必然展けてゆかなけ・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・ 深水が、これも人はいい、のみこみ屋の単純さで、「――こないだ、きみのおっかさんに逢ったときも、心配してござらっしゃった。三吉が東京へゆくと申しますが、あれに出てゆかれたらあとが困りますなんてなぁ、きみも長男だからね」 などとい・・・ 徳永直 「白い道」
・・・しかしそれとは全然性質を異にする三味線はいわば極めて原始的な単純なもので、決して楽器の音色からのみでは純然たる音楽的幻想を起させる力を持っていない。それ故日本の音楽にはいつも周囲の情景がその音楽的効果の上に欠くべからざる必要を生ぜしめるのは・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・同時に其単純な生涯から葬り去った。犬の毛皮を貼った板は俯向に倒れて居た。そうして板の裏が僅かに焦げて居た。 長塚節 「太十と其犬」
・・・きゃけえ、くうと曲折して鳴く。単純なる烏ではない。への字烏、くの字烏である。加茂の明神がかく鳴かしめて、うき我れをいとど寒がらしめ玉うの神意かも知れぬ。 かくして太織の蒲団を離れたる余は、顫えつつ窓を開けば、依稀たる細雨は、濃かに糺の森・・・ 夏目漱石 「京に着ける夕」
・・・とかいふ言葉がないのは不思議であるが、実際ニイチェの思想の中には、多くの矛盾した対立があり、且つ複雑した多要素が混入して居るので、単純にこれを一つの概念でイズムに形態化することができないのである。人々は各ニイチェの多様質の宇宙の中から、夫々・・・ 萩原朔太郎 「ニイチェに就いての雑感」
・・・勿論俳優の力量という制約があるが、あの大切な、謂わば製作者溝口の、人生に対する都会的なロマンチシズムの頂点の表現にあたって、あれ程単純に山路ふみ子の柄にはまった達者さだけを漲らしてしまわないでもよかった。おふみと芳太郎とが並んで懸合いをやる・・・ 宮本百合子 「「愛怨峡」における映画的表現の問題」
・・・閭が長安で主簿の任命を受けて、これから任地へ旅立とうとしたとき、あいにくこらえられぬほどの頭痛が起った。単純なレウマチス性の頭痛ではあったが、閭は平生から少し神経質であったので、かかりつけの医者の薬を飲んでもなかなかなおらない。これでは旅立・・・ 森鴎外 「寒山拾得」
・・・此の故官能表徴は表象能力として直接的であるそれだけ単純で、感覚的表徴能力のそれのようには独立的な全体を持たず、より複雑な進化能力を要求するわけには行かぬ。此の故清少納言の官能は新鮮なそれだけで何の暗示的な感覚的成長もしなかった。感覚的表徴は・・・ 横光利一 「新感覚論」
・・・葉を打つ雨の単純な響きにも、心を捉えて放さないような無限に深いある力が感じられるのです。 私はガラス越しにじっと窓の外をながめていました。そうしていつまでも身動きをしませんでした。私の眼には涙がにじみ出て来ました。湯加減のいい湯に全身を・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
出典:青空文庫