・・・「皮が厚いからなかなか骨が折れるだろう」と碌さんは水瓜のような事を云う。「折れても何でも剥くのさ。奇麗な顔をして、下卑た事ばかりやってる。それも金がない奴だと、自分だけで済むのだが、身分がいいと困る。下卑た根性を社会全体に蔓延させる・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・曇っていて今にも降り出しそうな空ではあったが、その厚い空の底には月があった。グラウンドを追っかければ、発見されるのは決まりきったことであった。 が、風のように早い深谷を見失わないためには、腹這ってなぞ行けなかった。で、彼はとっさの間に、・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・ が、乳色の、磨硝子の靄を通して灯を見るように、監獄の厚い壁を通して、雑音から街の地理を感得するように、彼の頭の中に、少年が不可解な光を投げた。 靄の先の光は、月であるか、電燈であるか、又は窓であるか、は解らなかったが光である事は疑・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
・・・蜜柑は皮の厚いのに酸味が多くて皮の薄いのに甘味が多い。貯えた蜜柑の皮に光沢があって、皮と肉との間に空虚のあるやつは中の肉の乾びておることが多い。皮がしなびて皺がよっているようなやつは必ず汁が多くて旨い。○くだものの嗜好 菓物は淡泊なもの・・・ 正岡子規 「くだもの」
・・・ その時窓にはまだ厚い茶いろのカーテンが引いてありましたので室の中はちょうどビール瓶のかけらをのぞいたようでした。ですから私も挨拶しました。「お早う。蜂雀。ペムペルという人がどうしたっての。」 蜂雀がガラスの向うで又云いました。・・・ 宮沢賢治 「黄いろのトマト」
・・・などの合本になった、水泡集と云ったと思うエビ茶色のローズの厚い本。『太陽』の増刊号。これらの雑誌や本は、はじめさし絵から、子供であったわたしの生活に入って来ている。くりかえし、くりかえしさし絵を見て、これ何の絵? というようなことを母にきい・・・ 宮本百合子 「新しい文学の誕生」
・・・ 綾小路は椅背に手を掛けたが、すぐに据わらずに、あたりを見廻して、卓の上にゆうべから開けたままになっている、厚い、仮綴の洋書に目を着けた。傍には幅の広い篦のような形をした、鼈甲の紙切小刀が置いてある。「又何か大きな物にかじり附いているね・・・ 森鴎外 「かのように」
・・・疏水の両側の角刈にされた枳殻の厚い垣には、黄色な実が成ってその実をもぎ取る手に棘が刺さった。枳殻のまばらな裾から帆をあげた舟の出入する運河の河口が見えたりした。そしてその方向から朝日が昇って来ては帆を染めると、喇叭のひびきが聞えて来た。私は・・・ 横光利一 「洋灯」
・・・その側には厚い書物が開けてある。卓の上のインク壺の背後には、例の大きい黒猫が蹲って眠っている。エルリングが肩の上には、例の烏が止まって今己が出し抜けに来た詫を云うのを、真面目な顔附で聞いていたが、エルリングが座を起ったので、鳥は部屋の隅へ飛・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
・・・彼らは時に情の厚い誠実な男としてふるまう。そうして自らそうだと信じている。そこへある事件が起こる。彼らは極度の不誠実を現わす。しかもなお自ら誠実な男だと信じている。最も徹底したように見えるJにおいてさえもそうである。彼はその全興味を注いで、・・・ 和辻哲郎 「転向」
出典:青空文庫