・・・こなたは三本木の松五郎、賭場の帰りの一杯機嫌、真暗な松並木をぶらぶらとやって参ります……」 話が興味の中心に近いて来ると、いつでも爺さんは突然調子を変え、思いもかけない無用なチャリを入れてそれをば聞手の群集から金を集める前提にするのであ・・・ 永井荷風 「伝通院」
・・・「北の方なる試合にも参り合せず。乱れたるは額にかかる髪のみならじ」と女は心ありげに問う。晴れかかりたる眉に晴れがたき雲の蟠まりて、弱き笑の強いて憂の裏より洩れ来る。「贈りまつれる薔薇の香に酔いて」とのみにて男は高き窓より表の方を見や・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・お淋しいだろうと思ッて私が参りますとね、あちらへ行ッてろとおッしゃッて、何だか考えていらッしゃるようですよ」「うまく言ッてるぜ。淋しかろうと思ッてじゃアなかろう、平田を口説いて鉢を喰ッたんだろう。ははははは。いい気味だ。おれの言う言を、・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・お手紙はたった四度しか参りませんでした。それから勲章をお貰いになったお祝を申上げた時、お葉書を一度下さいましたっけ。それにわたくしはどうでございましょう。 わたくしはあなたの記念を心の隅の方に、内証で大切にしまって置いて、昔のようになん・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・鮓を圧す石上に詩を題すべく緑子の頭巾眉深きいとほしみ大矢数弓師親子も参りたる時鳥歌よむ遊女聞ゆなる麻刈れと夕日此頃斜なる「たり」「なり」と言わずして「たる」「なる」と言うがごとき、「べし」と言わずして「べく」・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・ 奇麗なすきとおった風がやって参りました。まず向こうのポプラをひるがえし、青の燕麦に波をたてそれから丘にのぼって来ました。 うずのしゅげは光ってまるで踊るようにふらふらして叫びました。「さよなら、ひばりさん、さよなら、みなさん。・・・ 宮沢賢治 「おきなぐさ」
・・・精女 誰にもどうもされたのではございませんけれ共――今ここに参りましたら老人と若人と三人の精霊が居りましてその若い人は私の前に体をなげ出しましたんでございます。そしたら年とった人達が髪の毛の上に手を置いて御あげ額に一度だけキッスして御上・・・ 宮本百合子 「葦笛(一幕)」
・・・そして犬の血のついたままの脇差を逆手に持って、「お鷹匠衆はどうなさりましたな、お犬牽きは只今参りますぞ」と高声に言って、一声快よげに笑って、腹を十文字に切った。松野が背後から首を打った。 五助は身分の軽いものではあるが、のちに殉死者の遺・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・そこでわたくしはこの道を右に参りましょう。あなたは少しの間ここに立って待っていらっしゃって、それから左の方へおいでなさいまし。せっかくお別れをいたす日になって、宅にでも見附けられると、詰まりませんからね。 男。いかさま。そんならこれで。・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「最終の午後」
・・・その人達はお寺へ参るような風で、わたくしの所へ参りますの。曠着を着まして、足を爪立てまして、手には花束を持ちまして。」 一間の内はひっそりとしている。外で振っていた鐸の音さえも絶えてしまった。 フィンクは目をって闇の中を見ている。そ・・・ 著:リルケライネル・マリア 訳:森鴎外 「白」
出典:青空文庫