・・・所どころに嘔吐がはいてあったり、ゴミ箱が倒されていたりした。喬は自分も酒に酔ったときの経験は頭に上り、今は静かに歩くのだった。 新京極に折れると、たてた戸の間から金盥を持って風呂へ出かけてゆく女の下駄が鳴り、ローラースケートを持ち出す小・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・ ああ、書きながらも嘔吐を催す。人間も、こうなっては、既にだめである。浩然之気もへったくれもあったものでない。「月の夜、雪の朝、花のもとにても、心のどかに物語して盃出したる、よろずの興を添うるものなり。」などと言っている昔の人の典雅な心・・・ 太宰治 「禁酒の心」
・・・軍服のボタンは外れ、胸の辺はかきむしられ、軍帽は頷紐をかけたまま押し潰され、顔から頬にかけては、嘔吐した汚物が一面に附着した。 突然明らかな光線が室に射したと思うと、扉のところに、西洋蝋燭を持った一人の男の姿が浮き彫りのように顕われた。・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・そうして、牛乳やいわゆるソップがどうにも臭くって飲めず、飲めばきっと嘔吐したり下痢したりするという古風な趣味の人の多かったころであった。もっともそのころでもモダーンなハイカラな人もたくさんあって、たとえば当時通学していた番町小学校の同級生の・・・ 寺田寅彦 「コーヒー哲学序説」
・・・草花に処々釣り下げたる短冊既に面白からぬにその裏を見れば鬼ころしの広告ずり嘔吐を催すばかりなり。秋草には束髪の美人を聯想すなど考えながらこゝを出でたり。腹痛ようやく止む。鐘が淵紡績の煙突草後に聳え、右に白きは大学のボートハウスなるべし、端艇・・・ 寺田寅彦 「半日ある記」
・・・ 彼女の肩の辺から、枕の方へかけて、未だ彼女がいくらか、物を食べられる時に嘔吐したらしい汚物が、黒い血痕と共にグチャグチャに散ばっていた。髪毛がそれで固められていた。それに彼女のがねばりついていた。そして、頭部の方からは酸敗した悪臭を放・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・しかして古雅幽玄なる消極的美の弊害は一種の厭味を生じ、今日の俗宗匠の俳句の俗にして嘔吐を催さしむるに至るを見るに、かの艶麗ならんとして卑俗に陥りたるものに比して毫も優るところあらざるなり。 積極的美と消極的美とを比較して優劣を判せんこと・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・往来近いところは長い乱れた葦にかくされているが、向う側の小店の人間が捨てる必要のある総ての物――錆腐った鍋、古下駄から魚類の臓腑までをこの沼に投げ込むと見えアセチリン瓦斯の匂いに混って嘔吐を催させる悪臭が漲っている。 蒸気の艫へ、三人か・・・ 宮本百合子 「九月の或る日」
・・・というきょうの文学のやわたしらずの中で、三好十郎もまた吐くのは反吐という姿にある。「では誰のアミが現代のアクタモクタをホントにしゃくいあげることができるだろう? 田村泰次郎のアミがそれだなどと言う人があったら、失礼ながら私はひっくりかえって・・・ 宮本百合子 「五〇年代の文学とそこにある問題」
・・・ニュールンベルグの国際裁判の公判廷で、ゲーリングは自分らの惨虐をふたたびフィルムの上に展開されて、文字どおり嘔吐したと伝えられている。その命令を下した人物さえ、それを見直すにたえないほどの惨虐が行われたのであった。何十万人かがその餌食とされ・・・ 宮本百合子 「世界の寡婦」
出典:青空文庫