・・・ 妻は僕の口真似をしながら、小声にくすくす笑っていた。が、しばらくたったと思うと、赤子の頭に鼻を押しつけ、いつかもう静かに寝入っていた。 僕はそちらを向いたまま、説教因縁除睡鈔と言う本を読んでいた。これは和漢天竺の話を享保頃の坊さん・・・ 芥川竜之介 「死後」
・・・ 尤もなかなかの悪戯もので、逗子の三太郎……その目白鳥――がお茶の子だから雀の口真似をした所為でもあるまいが、日向の縁に出して人のいない時は、籠のまわりが雀どもの足跡だらけ。秋晴の或日、裏庭の茅葺小屋の風呂の廂へ、向うへ桜山を見せて掛け・・・ 泉鏡花 「二、三羽――十二、三羽」
・・・それでさっきの仇討という訣ですか。口真似なんか恐入りますナ。しかし民さんが野菊で僕が竜胆とは面白い対ですね。僕は悦んでりんどうになります。それで民さんがりんどうを好きになってくれればなお嬉しい」 二人はこんならちもなき事いうて悦んでいた・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・人の口真似ばかしするのだ。御堂筋を並んで歩きながら、風がありますから今日はいくらか寒いですわねと言うと、はあ、寒いですな、風があるからと口のなかでもぐもぐ……、それでなくてさえ十分腹を立てていた私は、川の中へ飛び込んでやろうかと思った。そん・・・ 織田作之助 「天衣無縫」
・・・ 白崎は例によってすぐ照井の口真似をした。 迷子だと思った小隊長が帰って来たので三人はやれやれだったが、しかし今後もあること故と、三人がその夜相談しているところへ、「あっしを留守番にどうです?」と、はいって来たのは左隣の鶴さんという・・・ 織田作之助 「電報」
・・・勝子は返事のかわりに口真似をして峻の手のなかへ入って来た。そして峻は手をひいて歩き出した。 往来に涼み台を出している近所の人びとが、通りすがりに、今晩は、今晩は、と声をかけた。「勝ちゃん。ここ何てとこ?」彼はそんなことを訊いてみた。・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・「三吉や、お前はあの口真似をするのが上手だが、このおばあさんも一つやって見せずか。どうしておばあさんだって、三吉には負けんぞい」 子供を前に置いて、おげんは蛙の鳴声なぞを真似して見せて戯れるうちに、何時の間にか彼女の心は本物の蛙の声・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・ と誰かの口真似のように言って、お三輪の側へ来るのは年上の方の孫だ。五つばかりになる男の児だ。「坊やは何を言うんだねえ」 とお三輪は打ち消すように言って、お富と顔を見合せた。過ぐる東京での震災の日には、打ち続く揺り返し、揺り返し・・・ 島崎藤村 「食堂」
・・・きのう学校で聞いて来たばかりの講義をそのまま口真似してはじめるのだから、たまったものでない。「数学の歴史も、振りかえって見れば、いろいろ時代と共に変遷して来たことは確かです。まず、最初の段階は、微積分学の発見時代に相当する。それからがギリシ・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・噴飯ものだ。口真似するのさえ、いまわしい。たいへんな事を言う奴だ。あの人は、狂ったのです。まだそのほかに、饑饉があるの、地震が起るの、星は空より堕ち、月は光を放たず、地に満つ人の死骸のまわりに、それをついばむ鷲が集るの、人はそのとき哀哭、切・・・ 太宰治 「駈込み訴え」
出典:青空文庫