・・・震災に焼かれた銀杏か松の古木であろう。わたくしはこの巨大なる枯樹のあるがために、単調なる運河の眺望が忽ち活気を帯び、彼方の空にかすむ工場の建物を背景にして、ここに暗欝なる新しい時代の画図をつくり成している事を感じた。セメントの橋の上を材木置・・・ 永井荷風 「深川の散歩」
・・・ 広い学校の裏はずうっと小高い丘に成っていて、丘の上にはいつでも青々とした樫の古木が、一ぱいに茂っていました。 お天気の好い日には、其の沢山の葉が、みな日光にキラキラと輝き、下萌えの草は風に戦ぎ、何処か見えない枝の蔭で囀る小鳥の声が・・・ 宮本百合子 「いとこ同志」
・・・ 自分がものを覚えるようになった日から続いていた幻の王国の領地で、或るときは杉の古木となり、或るときは小川となり、目に見えぬ綾の紅糸で、露にきせる寛衣を織る自由さえ持っていた自分は、今こうやって、悲しく辛い思いを独りでがまんして坐ってい・・・ 宮本百合子 「地は饒なり」
・・・紐育では見たくても見られない大きな古木も並木もあり、人通りも、人気もおだやかで、流石お役人町らしゅうございますが、一□(紐育に居て見ると、こちらは住むには余り活気がなさすぎるような気も致します。 一九一八年十二月五日〔東京市本郷区林・・・ 宮本百合子 「日記・書簡」
・・・ 耕地の端れの柏の古木の蔭に横たわりながら、彼は様々な思いに耽ったのである。 透き通りそうに澄みわたって、まるで精巧なギヤマン細工の天蓋のように一面キラキラと輝いている、広い広い空。 短かい陽炎がチロチロともえる香りのいい地面。・・・ 宮本百合子 「禰宜様宮田」
・・・さみしさ凄さはこればかりでもなくて、曲りくねッたさも悪徒らしい古木の洞穴には梟があの怖らしい両眼で月を睨みながら宿鳥を引き裂いて生血をぽたぽた…… 崖下にある一構えの第宅は郷士の住処と見え、よほど古びてはいるが、骨太く粧飾少く、夕顔の干・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・ 頭の上の菩提樹の古木の枝が、静かに朝風に戦いでいる。そして幾つともなく、小さい、冷たい花をフィンクの額に吹き落すのである。 著:リルケライネル・マリア 訳:森鴎外 「白」
出典:青空文庫