・・・その玩具のような可愛い汽車は、落葉樹の林や、谷間の見える山峡やを、うねうねと曲りながら走って行った。 或る日私は、軽便鉄道を途中で下車し、徒歩でU町の方へ歩いて行った。それは見晴しの好い峠の山道を、ひとりでゆっくり歩きたかったからであっ・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・十七かな、八かな。可愛い顔をしてらあ、ホラ、口ん中に汗が流れ込まあ」 彼は、暫く凭れにかかって、少年を観察していた。 少年は疲れた顔を、帯の輪の間に突っ込んで、深い眠りに眠りこけていた。「兄さん。おい、兄さん。冗談じゃないぜ息が・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
・・・「ほほほほ。可愛い虫さ」「油虫じゃアないか」「苦労の虫さ」と、小万は西宮をちょいと睨んで出て行ッた。 折から撃ッて来た拍子木は二時である。本見世と補見世の籠の鳥がおのおの棲に帰るので、一時に上草履の音が轟き始めた。 ・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・然るに垢抜けのした精美された心持ちで考えると、自分の児は可愛いには違いないが、欠点も仲々ある、どうしても他所の児の方が可い、併し可愛いとなる。これと同じ事で、文学にしがみ付いて、其でなきゃ夜も日も明けぬと云うな、真に文学を愛するもんじゃない・・・ 二葉亭四迷 「私は懐疑派だ」
・・・それは、吉三は可愛いと思うて居た。〔『ホトトギス』第二巻第六号 明治32・3・10〕 正岡子規 「恋」
・・・すぐ眼の前で、可愛い子どもの声がした。象が頭を上げて見ると、赤い着物の童子が立って、硯と紙を捧げていた。象は早速手紙を書いた。「ぼくはずいぶん眼にあっている。みんなで出て来て助けてくれ。」 童子はすぐに手紙をもって、林の方へあるいて・・・ 宮沢賢治 「オツベルと象」
・・・戦線の兵士たちが可愛い。法悦が顔にあらわれている。「神の子のような顔をした」兵士達云々と云っている林氏のロマンチシズムの横溢は、岡本かの子氏が昨今うたわれる和歌の或るものとともに、恐らく「神の子」たちの現実的な感情にとってはすぐ何のことか会・・・ 宮本百合子 「明日の言葉」
・・・「それも可愛いところのある人ですよ。発明は夜中にするらしくて、大きな音を立てるものだから、どこの下宿屋からも抛り出されましてね。今度の下宿には娘がいるから、今度だけは良さそうだ、なんて云ってました。学位論文も通ったらしいです。」「じ・・・ 横光利一 「微笑」
・・・ しかし奥様がどことなく萎れていらしって恍惚なすった御様子は、トント嬉かった昔を忍ぶとでもいいそうで、折ふしお膝の上へ乗せてお連になる若殿さま、これがまた見事に可愛い坊様なのを、ろくろくお愛しもなさらない塩梅、なぜだろうと子供心にも思いまし・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
・・・亡きわが児が可愛いのは何の理由もない、ただわけもなく可愛い。甘いものは甘い、辛いものは辛いというと同じように可愛い。ここまで育てて置いて亡くしたのは惜しかろうと言って同情してくれる人もあるが、そんな意味で惜しいなどという気持ちではない。また・・・ 和辻哲郎 「初めて西田幾多郎の名を聞いたころ」
出典:青空文庫