・・・尤も私は、その以前から、台所前の井戸端に、ささやかな養所が出来て毎日学校から帰るとに餌をやる事をば、非常に面白く思って居た処から、其の上にもと、無理な駄々を捏る必要もなかったのである。如何に幸福な平和な冬籠の時節であったろう。気味悪い狐の事・・・ 永井荷風 「狐」
・・・ 玄関に待つ野明さんは坊主頭である。台所から首を出した爺さんも坊主頭である。主人は哲学者である。居士は洪川和尚の会下である。そうして家は森の中にある。後は竹藪である。顫えながら飛び込んだ客は寒がりである。 子規と来て、ぜんざいと京都・・・ 夏目漱石 「京に着ける夕」
・・・外には活溌にして内には懶惰、台所の有様を知らず、玄関の事情を知らず、子供の何を喰らい何を着るを知らず、家族召使の何を楽しみ何を苦しむを知らず。早朝に家を出て夜に入らざれば帰らず。あるいは夜分に外出することあり、不意に旅行することあり。主人は・・・ 福沢諭吉 「教育の事」
・・・それならば内の裏にもあるから行って見ろというので、余は台所のような処を通り抜けて裏まで出て見ると、一間半ばかりの苗代茱萸が累々としてなって居った。これをくれるかといえば、いくらでも取れという。余が取りつつある傍へ一人の男が来て取ってくれる。・・・ 正岡子規 「くだもの」
・・・向うはすぐ台所の板の間で炉が切ってあって青い煙があがりその間にはわずかに低い二枚折の屏風が立っていた。 二人はそこにあったもみくしゃの単衣を汗のついたシャツの上に着て今日の仕事の整理をはじめた。富沢は色鉛筆で地図を彩り直したり、手帳へ書・・・ 宮沢賢治 「泉ある家」
・・・この種の問題が、ここで扱われているような場合に――食糧問題は、台所やりくりではなくて、男も女もひっくるめた全人民の生存のための問題であり、女子労働の悪条件と悲劇的な女子失業の現象は、とりも直さず全勤労人口の問題であるとして捉えられたとき――・・・ 宮本百合子 「合図の旗」
・・・宮永は二人扶持十石の台所役人で、先代に殉死を願った最初の男であった。四月二十六日に浄照寺で切腹した。介錯は吉村嘉右衛門がした。この人々の中にはそれぞれの家の菩提所に葬られたのもあるが、また高麗門外の山中にある霊屋のそばに葬られたのもある。・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・ その時ツァウォツキイは台所で使う刃物を出した。そしてフランチェンスウェヒを横切って、ウルガルン王国の官有鉄道の発起点になっている堤の所へ出掛けた。 ここはいつもリンツマンの檀那の通る所である。リンツマンの檀那と云うのは鞣皮製造所の・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・ お霜は台所へ這入った。勘次は表へ出て北の方を眺めてみたが、秋三の姿は竹藪の向うに消えていた。彼は又秋三とひと争いをしなければならぬと思った。そして、胸の中で、自分は安次を引取ることに異議を立てるのではなく、秋三の狡猾さに立腹しているの・・・ 横光利一 「南北」
・・・客が十人も来れば台所の方では相当に手がかかる。しかし客と応対する主人の精神的な働きもそれに劣るものではない。木曜会に時々顔を出したころの私は、そんなことをまるで考えてもみなかったが、後に漱石の家庭の事情をいろいろと知るに及んで、その点に思い・・・ 和辻哲郎 「漱石の人物」
出典:青空文庫