・・・時流に対して、なんの号令も、できないのである。さすがにそれが、ときどき侘びしくふらと家を出て、石を蹴り蹴り路を歩いて、私は、やはり病気なのであろうか。私は小説というものを間違って考えているのであろうか、と思案にくれて、いや、そうで無いと打ち・・・ 太宰治 「鴎」
・・・と神の父ゼウスは天上から人間に号令した。「受取れ、これはお前たちのものだ。お前たちにおれは、これを遺産として、永遠の領地として、贈ってやる。さあ、仲好く分け合うのだ。」その声を聞き、忽ち先を争って、手のある限りの者は右往左往、おのれの分・・・ 太宰治 「心の王者」
・・・私には、謂わば政治的手腕も無ければ、人に号令する勇気も無し、教えるほどの学問も無い。何とかして明るい希望を持っていたいと工夫の揚句が、わずかに毎朝の冷水摩擦くらいのところである。けれども無頼の私にとっては、それだけでも勇猛の、大事業のつもり・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・これを見ていると、なんだか現在のロシアでは三度のめしを食うのでもみんな号令でフォークやナイフを動かしているのではないかというような気がして来て、これでは自分のようなわがままな人間はとてもやりきれないだろうという気がするのであった。たとえば工・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・火の伝播がいかに迅速であるとしても、発火と同時に全館に警鈴が鳴り渡りかねてから手ぐすね引いている火災係が各自の部署につき、良好な有力な拡声機によって安全なる避難路が指示され、群集は落ち着き払ってその号令に耳をすまして静かに行動を起こし、そう・・・ 寺田寅彦 「火事教育」
・・・将校が一々号令をかけているのが滑稽の感を少なからず助長するのであった。 船首の突端へ行って海を見おろしていると深碧の水の中に桃紅色の海月が群れになって浮遊している。ずっと深い所に時々大きな魚だか蝦だか不思議な形をした物の影が見えるがなん・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・と三十一になる。四年前に文学士になってから、しばらく神田の某私立学校で英語を教えていた。受持の時間に竹村君が教場へはいるときに首席にいる生徒が「気を付け」「礼」と号令をすると生徒一同起立して恭しくお辞儀をする。そんな事からが妙に厭であった。・・・ 寺田寅彦 「まじょりか皿」
・・・力の強い子で、朝、教室の前で同級生たちを整列させているとき、級長の号令をきかないで乱暴する子があると、黙って首ッ玉と腕をつかんでひっぱってくる。そんなときもやはりわらっていた。 林が私のために、邸の奥さんに詫びてくれてから、私は林が好き・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
・・・枡を持ち出して、反物の尺を取ってやるから、さあ持って来いと号令を下したって誰も号令に応ずるものはありません。寒暖計を眺めて、どうもあの山の高さはよほどあるよと云う連中は、寒暖計を験温器の代りにして逆上の程度でも計ったらよかろうと思う。もっと・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・と思ったらしく、ちょっとうしろを振り向いて見ましたが、なあになんでもないという風でまたこっちを向いて「右ぃおいっ」と号令をかけました。ところがおかしな子どもはやっぱりちゃんとこしかけたままきろきろこっちを見ています。みんなはそれから番号・・・ 宮沢賢治 「風野又三郎」
出典:青空文庫