・・・ それから十日ほど経って、きのうの朝、私は吉祥寺の郵便局へ用事があって出かけて、その帰りみち、また杉野君の家へ立ち寄った。先日のモデルの後日談をも聞いてみたかったのである。玄関の呼鈴を押したら、出て来たのは、あのひとである。先日のモデル・・・ 太宰治 「リイズ」
・・・私は吉祥寺ではないかとも云ってみた。 この婦人には一人男の連れがあったが、電車ではずっと離れた向う側に腰をかけていた。後のその隣に空席が出来たときに女の方でそこへ行って何かしら話をしていたのである。 われわれの問題は、虫が髪に附いて・・・ 寺田寅彦 「さまよえるユダヤ人の手記より」
・・・ カラクリの爺は眼のくさった元気のない男で、盲目の歌うような物悲しい声で、「本郷駒込吉祥寺八百屋のお七はお小姓の吉三に惚れて……。」と節をつけて歌いながら、カラクリの絵板につけた綱を引張っていたが、辻講釈の方は歯こそ抜けておれ眼付のこわ・・・ 永井荷風 「伝通院」
・・・私はおどろいて、一体どうして暮して行くのだろうかと考え考え、小っぽけな砂糖袋をもって、お七で有名な吉祥寺の前の春の通りを歩いて行ったことを覚えている。その頃は刺身が一人前五十銭であった。 喫茶店をやっている人が来て、近々その店を閉めて、・・・ 宮本百合子 「打あけ話」
・・・ 咲、自家用にのって、やすい花屋をさがして吉祥寺前の問屋とかで買って来た由。 芍薬二輪ぐらいずつ大切にいけられている、 額「これいい絵ね だれの?」「淳さんの、恐らく淳さんの一番いい絵じゃないかって 云わ・・・ 宮本百合子 「生活の様式」
厭だ厭だと思い乍ら、吉祥寺前の家には、一年と四ヵ月程住んだ。あの家でも、いろいろな事に遭遇した。此の家に移ってからも、二月と経たないうちに、上野で平和博覧会が開かれた。続いて又、プリンス・オブ・ウェルスが四月十二日に来朝さ・・・ 宮本百合子 「二つの家を繋ぐ回想」
・・・ 夜に成ると、山門と、静かな鐘楼の間から松の葉越しに、まるで芝居の書割のように大きな銀色の月が見える吉祥寺が、大通の真前にあった。 俥が漸々入る露路のとっつきにある彼女等の格子戸は、前に可愛い二本の槇を植えて、些か風情を添えて居るも・・・ 宮本百合子 「われらの家」
出典:青空文庫