・・・これは異様な、愕きをともなった感覚であって、まるで風の音もきこえない暖い病室で臥たり、笑ったりしている平穏な自分の内部に折々名状しがたい瞬間となって浮び出て来る。やっぱり腹を切るというのは相当のこと也。○ 手術した晩に、安らかな気持なの・・・ 宮本百合子 「寒の梅」
・・・生活との経済的なくみうちが前面にのっていて、しかも、これまでの日本の社会では、経済上、自立した一つの単位として見られることのなかった主婦、母たちのもがきであるために、苦悩と混乱とは名状しがたい。手記をかいている少数の人々の生活でさえそうなの・・・ 宮本百合子 「『この果てに君ある如く』の選後に」
・・・ 人類の発展の足どりは、実に多岐多難である。名状し難い献身、堅忍、労作、巨大な客観的な見とおしとそれを支えるに足る人間情熱の総量の上に、徐々に推しすすめられて来ている。決して反復されることない個人の全生涯の運命と歴史の運命とは、ここに於・・・ 宮本百合子 「こわれた鏡」
・・・かの子さんの小説がどっさり現れるようになってから、かの子さんの顔を見ると、いつも私の心に起って来る妙な居心地わるさというか苦しいというか名状しがたい心持について、暫く考えて見たく思うのである。 一口に云えば、印刷になった彼女の小説を読む・・・ 宮本百合子 「作品の血脈」
・・・ 飛び交う数字と一種名状すべからざる緊張した熱意で飽和している空気の中をそっと、一人の婦人党員が舞台から日本女のところへきた。彼女は日本女の耳に口をつけて云った。 ――ようこそ! どこからです? ――日本から。 囁きかえした・・・ 宮本百合子 「三月八日は女の日だ」
・・・ 十数年来婦選のために力をつくして来た種々の婦人団体は昭和九年以来、方向転換して母子保護法の達成に協力することとなり、十二年それが可決されてのち、婦選運動家たちの動きは、時局に際して一種の名状しがたい消極的混乱におかれるに到った。「時局・・・ 宮本百合子 「女性の歴史の七十四年」
・・・見ている私の喉一杯に、涙とも笑いとも名状しがたいものがつき上げて来た。裙を、ぴったりつけた脚の間に捲きこむようにすると、私はきつく目を瞑って、坐っているその場所から、体を倒して砂丘をころがって行った。夢中で、ああこのまんまころがって、何処か・・・ 宮本百合子 「青春」
・・・戦慄が、C女史の体を貫いて走った。名状しがたい感激がわき上った。「驚きではない、怒りでもない、悲しみでもない。彼女はただしっかりとこの一枚のうつしえを抱きしめました」 再びその部屋に入って来た淑貞の咲きみちた花のような姿は、C女史に「一・・・ 宮本百合子 「春桃」
・・・それを思うと、林羅山などが文教の権を握ったということは、何とも名状のしようのない不愉快なことである。 鎖国は、外からの刺戟を排除したという意味で、日本の不幸となったに相違ないが、しかしそれよりも一層大きい不幸は、国内で自由な討究の精神を・・・ 和辻哲郎 「埋もれた日本」
・・・ 先生が明治初年の排仏毀釈の時代にいかに多くの傑作が焼かれあるいは二束三文に外国に売り払われたかを述べ立てた時などには、実際我々の若い血は沸き立ち、名状し難い公憤を感じたものである。が、あの煽動は決して策略的な煽動ではなかった。我々のう・・・ 和辻哲郎 「岡倉先生の思い出」
出典:青空文庫