・・・いでと新田足利勧請文を向けるほどに二ツ切りの紙三つに折ることもよく合点しやがて本文通りなまじ同伴あるを邪魔と思うころは紛れもない下心、いらざるところへ勇気が出て敵は川添いの裏二階もう掌のうちと単騎馳せ向いたるがさて行義よくては成りがたいがこ・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・私は庭に向いた四畳半の縁先へ鋏を持ち出して、よく延びやすい自分の爪を切った。 どうかすると、私は子供と一緒になって遊ぶような心も失ってしまい、自分の狭い四畳半に隠れ、庭の草木を友として、わずかにひとりを慰めようとした。子供は到底母親だけ・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・その道を河に沿うて、河の方へ向いて七人の男がゆっくり歩いている。男等の位置と白楊の位置とが変るので、その男等が歩いているという事がやっと知れるのである。七人とも上着の扣鈕をみな掛けて、襟を立てて、両手をずぼんの隠しに入れている。話声もしない・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・やはり女が引いている。向いの、縞のようになった山畠に烟が一筋揚っている。焔がぽろぽろと光る。烟は斜に広がって、末は夕方の色と溶けてゆく。 女の人も自分のそばへ寄って等しく外を見る。山畠のあちらこちらを馬が下りる。馬は犬よりも小さい。首を・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・ おかあさんはねむった子どものあお向いた顔を見おろしました。顔のまわりの白いレースがちょうど白百合の花びらのようでした。それを見るとおかあさんは天国を胸に抱いてるように思いました。 ふと子どもは目をさまして水を求めました。 おか・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・其処で、彼女は仕方なく天地をお創りになった神に向い、どうか、此世にない程の力を授けて下さるように、驚くべき奇蹟で、プラタプに「や! 此がお前に出来ようとは思わなかった」と、喫驚、叫ばせてやることが出来ますように、と祈るのでした。・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・深夜、裸形で鏡に向い、にっと可愛く微笑してみたり、ふっくらした白い両足を、ヘチマコロンで洗って、その指先にそっと自身で接吻して、うっとり眼をつぶってみたり、いちど、鼻の先に、針で突いたような小さい吹出物して、憂鬱のあまり、自殺を計ったことが・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・そして娘の方を見たが、娘は知らぬ顔をして、あっちを向いている。あのくらいのうちは恥ずかしいんだろう、と思うとたまらなくかわいくなったらしい。見ぬようなふりをして幾度となく見る、しきりに見る。――そしてまた眼をそらして、今度は階段のところで追・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・ 河向いから池までの熊笹を切開いた路はぐしょぐしょに水浸しになって歩きにくかった。学校の先生らしい一行があとから自分らを追越して行った。 明神池は自分には別に珍しい印象を与えなかった。何となく人工的な感じのする点がこの池を有名にして・・・ 寺田寅彦 「雨の上高地」
・・・帰るたびに入りつけた料理屋へついて、だだっ広い石畳の入口から、庭の飛石を伝っていくと、そこに時代のついた庭に向いて、古びた部屋があった。道太は路次の前に立って、寂のついた庭を眺めていた。この町でも別にいいというほどの庭ではなかったけれど、乾・・・ 徳田秋声 「挿話」
出典:青空文庫