・・・ 彼女が三度目にこう言った時、夫はくるりと背を向けたと思うと、静かに玄関をおりて行った。常子は最後の勇気を振い、必死に夫へ追い縋ろうとした。が、まだ一足も出さぬうちに彼女の耳にはいったのは戞々と蹄の鳴る音である。常子は青い顔をしたまま、・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・それらの言葉は父に向けてはうっかり言えない言葉に違いない。しかし彼ならばそれを耳にはさんで黙っているだろうし、そしてそれが結局小作人らにとって不為めにはならないのを小作人たちは知りぬいているらしかった。彼には父の態度と同様、小作人たちのこう・・・ 有島武郎 「親子」
・・・何でも目に見えるものを皆優しい両手で掻き抱き、自分の胸に押しつけたいと思うような気分で、まず晴れ渡った空を仰いで見て、桜の木の赤味を帯びた枝の方を見て、それから庭の草の上に寝ころんで顔を熱く照らす日に向けて居た。しかしそれも退屈だと見えて、・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・そして、輓近一部の日本人によって起されたところの自然主義の運動なるものは、旧道徳、旧思想、旧習慣のすべてに対して反抗を試みたと全く同じ理由に於て、この国家という既定の権力に対しても、その懐疑の鉾尖を向けねばならぬ性質のものであった。然し我々・・・ 石川啄木 「性急な思想」
・・・ 西さ向けば、西の方、南さ向けば南の方、何でもおらがの向いた方で聞えるだね。浪の畝ると同一に声が浮いたり沈んだり、遠くなったりな、近くなったり。 その内ぼやぼやと火が燃えた。船から、沖へ、ものの十四五町と真黒な中へ、ぶくぶくと大きな・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・自分は胸きりの水中容易に進めないから、しぶきを全身に浴びつつ水に咽せて顔を正面に向けて進むことはできない。ようやく埒外に出れば、それからは流れに従って行くのであるが、先の日に石や土俵を積んで防禦した、その石や土俵が道中に散乱してあるから、水・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・と、自分は亭主に角のない皮肉をあびせかけ、銚子を僕に向けて、「まア、一杯どうどす?――うちの人は、いつも、あないなことばかり云うとります。どうぞ、しかってやってお呉れやす。」「まア、こういう人間は云いたいだけ云わして置きゃア済むんで・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・女の写真屋の話はそれ切で、その後コッチから水を向けても「アレは空談サ」とばかり一笑に附してしまったから今以て不可解である。二葉亭は多情多恨で交友間に聞え、かなり艶聞にも富んでいたらしいが、私は二葉亭に限らず誰とでも酒と女の話には余り立入らん・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・ こう彼らは、途中、希望に輝く瞳を上に向けて、語り合いました。 みんなは、とうとう上へいって、頭を堅いものに打ちつけてしまいました。「なんだろうね?」と、一人が叫びました。「ああ、わかった。空に、頭をぶっつけたんだ。」・・・ 小川未明 「魚と白鳥」
・・・ こんな恥しい目に遭って、私ゃ人にも顔向けできない、死んでやる!」と言って、女房は泣伏してしまった。 * * * 私は銭占屋を送って、町の入江の船着場まで行った。そこから向地通いの小蒸汽に乗るのだ。そよそよと・・・ 小栗風葉 「世間師」
出典:青空文庫