・・・その蓋から一方へ向けてそれで蔽い切れない部分が二三尺はみ出しているようであった。だが、どうもハッキリ分らなかった。何しろ可成り距離はあるんだし、暗くはあるし、けれども私は体中の神経を目に集めて、その一固りを見詰めた。 私は、ブルブル震え・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・と、小万は仰山らしく西宮へ膝を向け、「さアお言いなさい。外聞の悪いことをお言いなさんなよ」「小万さん、お前も酔ッておやりよ。私ゃ管でも巻かないじゃアやるせがないよ。ねえ兄さん」と、吉里は平田をじろりと見て、西宮の手をしかと握り、「ねえ、・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・甲板から帰って来た人が、大山大将を載せた船は今宇品へ向けて出帆した、と告げた時は誰も皆妬ましく感じたらしい。この船は我船より後れて馬関へはいったのである。殊に第二軍司令部附であった記者は、大山大将が一処に帰ろといわれたのを聴かずに先へ帰って・・・ 正岡子規 「病」
・・・ 三時ごろ水がさっぱり来なくなったからどうしたのかと思って大堰の下の岐れまで行ってみたら権十がこっちをとめてじぶんの方へ向けていた。ぼくはまるで権十が甘藍の夜盗虫みたいな気がした。顔がむくむく膨れていて、おまけにあんな冠らなくてもいいよ・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・いう呪文を思い浮べ、女には女らしくして欲しいような気になり、その要求で解決がつけば自分と妻とが今日の文明と称するもののうちに深淵をひらいている非文明の力に金縛りになっているより大きい事実にはあまり目を向けないという結果になっている。 こ・・・ 宮本百合子 「新しい船出」
・・・ かれはクリクトーのある百姓に話しかけると、話の半ばも聴かず、この百姓の胃のくぼみに酒が入っていたところで、かれに面と向けて『何だ大泥棒!』 そして踵をめぐらして去ってしまった。 アウシュコルンは無言で立ちどまった。だんだん・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
・・・と云って、晴々とした不断の顔を右へ向けた。 山田はその顔を見て、急に思い附いたらしい様子で、小声になって云った。「君はぐんぐん為事を捗らせるが、どうもはたで見ていると、笑談にしているようでならない。」「そんな事はないよ」と、木村・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・ われわれの討論は、今や一斉にここに向けられなければならぬ。 コンミニストは次のように云う。「もしも一個の人間が、現下に於て、最も深き認識に達すれば、コンミニストたらざるを得なくなる。」と。 しかしながら、文学に対して、・・・ 横光利一 「新感覚派とコンミニズム文学」
・・・ 大きな望遠鏡が、高い台に据えて、海の方へ向けてある。後に聞けば、その凸面鏡は、エルリングが自分で磨ったのである。書棚の上には、地球儀が一つ置いてある。卓の上には分析に使う硝子瓶がある。六分儀がある。古い顕微鏡がある。自然学の趣味もある・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
・・・守り手のない妃のところへは武士をさし向け、妃を山中に拉して首を切らせる。そうして、ここにも首なき母親の哺乳が語られるのである。しかし新王が十二年の旅から帰って来て妃の運命を知った時には、話はまた違ってくる。新王はただ一人で妃の探索に出かけ、・・・ 和辻哲郎 「埋もれた日本」
出典:青空文庫