・・・すると河童は逃げ腰をしたなり、二三メエトル隔たった向こうに僕を振り返って見ているのです。それは不思議でもなんでもありません。しかし僕に意外だったのは河童の体の色のことです。岩の上に僕を見ていた河童は一面に灰色を帯びていました。けれども今は体・・・ 芥川竜之介 「河童」
・・・日かげにいると、向こうからこっちが見えない」 久米が、皆をふり返ってこう言った。そこで、皆ひなたへ出た。僕はやはり帽子をあげて立っている。僕のとなりには、ジョオンズが、怪しげなパナマをふっている。その前には、背の高い松岡と背の低い菊池と・・・ 芥川竜之介 「出帆」
・・・松浦君、江口君、岡君が、こっちの受付をやってくれる。向こうは、和辻さん、赤木君、久米という顔ぶれである。そのほか、朝日新聞社の人が、一人ずつ両方へ手伝いに来てくれた。 やがて、霊柩車が来る。続いて、一般の会葬者が、ぽつぽつ来はじめた。休・・・ 芥川竜之介 「葬儀記」
・・・なだらかに高低のある畑地の向こうにマッカリヌプリの規則正しい山の姿が寒々と一つ聳えて、その頂きに近い西の面だけが、かすかに日の光を照りかえして赤ずんでいた。いつの間にか雲一ひらもなく澄みわたった空の高みに、細々とした新月が、置き忘れられた光・・・ 有島武郎 「親子」
・・・ 子供たちの群れからはすかいにあたる向こう側の、格子戸立ての平家の軒さきに、牛乳の配達車が一台置いてあった。水色のペンキで塗りつぶした箱の横腹に、「精乳社」と毒々しい赤色で書いてあるのが眼を牽いたので、彼は急ぎながらも、毒々しい箱の字を・・・ 有島武郎 「卑怯者」
上 何心なく、背戸の小橋を、向こうの蘆へ渡りかけて、思わず足を留めた。 不図、鳥の鳴音がする。……いかにも優しい、しおらしい声で、きりきり、きりりりり。 その声が、直ぐ耳近に聞こえたが、つい目前・・・ 泉鏡花 「海の使者」
・・・主の抱え車じゃあるめえし、ふむ、よけいなおせっかいよ、なあ爺さん、向こうから謂わねえたって、この寒いのに股引きはこっちで穿きてえや、そこがめいめいの内証で穿けねえから、穿けねえのだ。何も穿かねえというんじゃねえ。しかもお提灯より見っこのねえ・・・ 泉鏡花 「夜行巡査」
一「満蔵満蔵、省作省作、そとはまっぴかりだよ。さあさあ起きるだ起きるだ。向こうや隣でや、もう一仕事したころだわ。こん天気のえいのん朝寝していてどうするだい。省作省作、さあさあ」 表座敷の雨戸をがらがらあ・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・高山を一つ越えて、もうやがて向こうに海が見えようとするころでありました。かもめは、一羽のからすに出あいました。 からすはカーカーとなきながら、やはり里の方をさして飛んでゆくところでありました。おしゃべりのからすはすぐ、自分の上を飛んでゆ・・・ 小川未明 「馬を殺したからす」
・・・ 都会で、はなやかな生活を送っていらっしゃるお嬢さまは、高い窓からかなたの空をながめて、遠い、知らぬ海の向こうの国々のことなどを、さまざまに想像して、悲しんだり、あこがれたりしていられたのですが、いま、おかよの話をきくと、このところへは・・・ 小川未明 「谷にうたう女」
出典:青空文庫