・・・ 向島のうら枯さえ見に行く人もないのに、秋の末の十二社、それはよし、もの好として差措いても、小山にはまだ令室のないこと、並びに今も来る途中、朋友なる給水工場の重役の宅で一盞すすめられて杯の遣取をする内に、娶るべき女房の身分に就いて、忠告・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・大門を出てから、ある安料埋店で朝酒を飲み、それから向島の百花園へ行こうということに定まったが、僕は千束町へ寄って見たくなったので、まず、その方へまわることにした。 僕は友人を連れて復讐に出かけるような意気込みになった。もっとも、酒の勢い・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
震火で灰となった記念物の中に史蹟というのは仰山だが、焼けてしまって惜まれる小さな遺跡や建物がある。淡島寒月の向島の旧庵の如きその一つである。今ではその跡にバラック住いをして旧廬の再興を志ざしているが、再興されても先代の椿岳の手沢の・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・電車の便利のない時分、向島へ遊びに行って、夕飯を喰いにわざわざ日本橋まで俥を飛ばして行くという難かし屋であった。 その上に頗る多食家であって、親しい遠慮のない友達が来ると水菓子だの餅菓子だのと三種も四種も山盛りに積んだのを列べて、お客は・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・岡釣でも本所、深川、真鍋河岸や万年のあたりでまごまごした人とも思われねえ、あれは上の方の向島か、もっと上の方の岡釣師ですな。」 「なるほど勘が好い、どうもお前うまいことを言う、そして。」 「なアに、あれは何でもございませんよ、中気に・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・十八になって、向島の待合の下女をつとめ、そこの常客である新派の爺さん役者をだまそうとして、かえってだまされ、恥ずかしさのあまり、ナフタリンを食べて、死んだふりをして見せた。待合から、ひまを出されて、五年ぶりで生家へ帰った。生家では、三年まえ・・・ 太宰治 「古典風」
・・・客人は、二十七八歳の、弱い側妻を求めていた。向島の一隅の、しもたやの二階を借りて住まっていて、五歳のててなし児とふたりきりのくらしである。かれは、川開きの花火の夜、そこへ遊びに行き、その五歳の娘に絵をかいてやるのだ。まんまるいまるをかいて、・・・ 太宰治 「雌に就いて」
・・・ 初夏の空の碧! それに、欅の若芽の黄に近い色が捺すように印せられているさまは実に感じが好い。何となく心が浮き立って、思わず詩でも低誦したくなる。物が総て光って輝いて明るい。 向島の長い土手は、花の頃は塵埃と風と雑沓とで行って見よう・・・ 田山花袋 「新茶のかおり」
・・・向うへ越して交番に百花園への道を尋ね、向島堤上の砂利を蹴って行く。空いつの間にか曇りてポツリ/\顔におつれどさしたる事もなければ行手を急いで上へ/\と行く。道右へ廻りて両側に料理屋茶店など立ち並ぶ間を行く。右手に萩の園と掛札ある家を、これが・・・ 寺田寅彦 「半日ある記」
・・・則深川仲町には某楼があり、駒込追分には草津温泉があり、根岸には志保原伊香保の二亭があり、入谷には松源があり、向島秋葉神社境内には有馬温泉があり、水神には八百松があり、木母寺の畔には植半があった。明治七年に刊行せられた東京新繁昌記中に其の著者・・・ 永井荷風 「上野」
出典:青空文庫