・・・婆芸者が土色した薄ぺらな唇を捩じ曲げてチュウッチュウッと音高く虫歯を吸う。請負師が大叭の後でウーイと一ツをする。車掌が身体を折れるほどに反して時々はずれる後の綱をば引き直している。 麹町の三丁目で、ぶら提灯と大きな白木綿の風呂敷包を持ち・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・口を開けて鰯を吸う鯨の待ち構えている所まで来るやいなやキーと軋る音と共に厚樫の扉は彼らと浮世の光りとを長えに隔てる。彼らはかくしてついに宿命の鬼の餌食となる。明日食われるか明後日食われるかあるいはまた十年の後に食われるか鬼よりほかに知るもの・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・ ついでまた朋友親戚等より、某国産の銘葉を得て、わずかに一、二管を試みたる後には、以前のものはこれを吸うべからざるのみならず、かたわらにこれを薫ずる者あれば、その臭気を嗅ぐにも堪えず。もしも強いて自からこれを用いんとすれば、ただ苦痛不快・・・ 福沢諭吉 「教育の目的」
・・・しかしもうわたしにはあの甘い苦を持っている、ここの空気を吸う事は出来ぬ。わたしはもう行かねばならぬ。(真中主人。お母様。死。黙れ。其方が母はもう帰らぬわ。主人。お母様。お母様。どうぞ今一度此処へ戻って来て下さりませ。このわたしの・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・皮に近い部分が最も旨いのであるから、これを食う時に皮を少し厚くむいて置いて、その皮の裏を吸うのも旨いものである。しかるにこれに反対のやつは柿であって柿の半熟のものは、心の方が先ず熟して居って、皮に近い部分は渋味を残して居る。また尖の方は熟し・・・ 正岡子規 「くだもの」
・・・ 小い黄な蝶はひらひらと飛んで来て干し衣の裾を廻ったが直ぐまた飛んで往て遠くにあるおしろいの花をちょっと吸うて終に萩のうしろに隠れた。 籠の鶉もまだ昼飯を貰わないのでひもじいと見えて頻りにがさがさと籠を掻いて居る。 台所では皿徳・・・ 正岡子規 「飯待つ間」
・・・ 鼻のとがった人はすぱすぱと、煙草を吸うときのような口つきで言いました。「この水飲むのか、ここらでは。」「あんまり川をにごすなよ、 いつでも先生言うでないか。」 鼻のとがった人は少し困ったようにして、また言いました。・・・ 宮沢賢治 「風の又三郎」
・・・鼻の尖った人は、すぱすぱと、煙草を吸うときのような口つきで云った。「この水呑むのか、ここらでは。」「あんまり川をにごすなよ、 いつでも先生云うでなぃか。」鼻の尖った人は、少し困ったようにして、また云った。「川をあるいてわるい・・・ 宮沢賢治 「さいかち淵」
・・・ 良吉は、油っ濃くでくでくに肥って、抜け上った額が熱い汁を吸う度びに赤くなって行った。 義太夫語りの様なゼイゼイした太い声を出して、何ぞと云っては、「ウハハハハと豪傑を気取り、勿体をつけて、ゆすりあげて笑った。 ・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・ せわしい中にも苦しい中にもどっかしらんにのびやかに奇麗な心のある様にするのには、何でも彼んでもを吸取紙の様に吸うその頃の頭の中におぼろげにでも奇麗な感情をつぎ注いで置くのがいいんです。 少女小説の著者の名にあこがれて、未来の文学者・・・ 宮本百合子 「現今の少女小説について」
出典:青空文庫