・・・ゆっくり歩こう、と持ちまえの呑気さを取り返し、好きな小歌をいい声で歌い出した。ぶらぶら歩いて二里行き三里行き、そろそろ全里程の半ばに到達した頃、降って湧いた災難、メロスの足は、はたと、とまった。見よ、前方の川を。きのうの豪雨で山の水源地は氾・・・ 太宰治 「走れメロス」
・・・ 向島の長い土手は、花の頃は塵埃と風と雑沓とで行って見ようという気にはなれないが、花が散って、若葉が深くなって、茶店の毛布が際立って赤く見えるころになると、何だか一日の閑を得て、暢気に歩いて見たいような心地がする。 散歩には此頃は好・・・ 田山花袋 「新茶のかおり」
・・・その時の会場は何となく緊張していたが当人のアインシュタインは極めて呑気な顔をしていた。レナードが原理の非難を述べている間に、かつてフィルハルモニーで彼の人身攻撃をやった男が後ろの方の席から拍手をしたりした。しかしレナードの急き込んだ質問は、・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・そうして、若い娘と若い男二人がその奇抜な新宅の設備にかかっている間に、年老った方の男一人は客車の屋根の片端に坐り込んで手風琴を鳴らしながら呑気そうな歌を唄う。ところがその男のよく飼い馴らしたと見える鴉が一羽この男の右の片膝に乗って大人しくす・・・ 寺田寅彦 「鴉と唱歌」
・・・以前は山の方がよかったけれども、今は海が暢気でいい。だがあまり荒い浪は嫌いだね」「そうですか。私は海辺に育ちましたから浪を見るのが大好きですよ。海が荒れると、見にくるのが楽しみです」「あすこが大阪かね」私は左手の漂渺とした水霧の果て・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・この忙しい世の中に、流行りもせぬ幽霊の書物を澄まして愛読するなどというのは、呑気を通り越して贅沢の沙汰だと思う。「僕も気楽に幽霊でも研究して見たいが、――どうも毎日芝から小石川の奥まで帰るのだから研究は愚か、自分が幽霊になりそうなくらい・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・随分呑気なものである。 然し漢文科や国文科の方はやりたくない。そこで愈英文科を志望学科と定めた。 然し其時分の志望は実に茫漠極まったもので、ただ英語英文に通達して、外国語でえらい文学上の述作をやって、西洋人を驚かせようという希望を抱・・・ 夏目漱石 「処女作追懐談」
・・・そして器械の前のとこを、呑気にあるきはじめたのだ。 ところが何せ、器械はひどく廻っていて、籾は夕立か霰のように、パチパチ象にあたるのだ。象はいかにもうるさいらしく、小さなその眼を細めていたが、またよく見ると、たしかに少しわらっていた。・・・ 宮沢賢治 「オツベルと象」
・・・昔流にいえば、まだ一家の主婦でない若い女のひとはそんなことには娘時代の呑気さでうっかり過したかもしれないが、今日は、主婦でない女のひとも、やはりこのことには社会の現象として注意をひかれているのが実際であろう。古い女らしさに従えば、うまくやり・・・ 宮本百合子 「新しい船出」
・・・疲れが出て、日本へ向って走っているのではなく、どこか内国旅行しているような呑気な気になってころがりつつ。 ――気をつけなさい。ヴャトカは日本人の旧跡だから。自分がトンマですりに会って、シベリア鉄道の沿線に泥棒の名所があるなんて逆宣伝して・・・ 宮本百合子 「新しきシベリアを横切る」
出典:青空文庫