・・・、そうして、その影法師が、障子の引手へ手をかけると共に消えて、その代りに、早水藤左衛門の逞しい姿が、座敷の中へはいって来なかったなら、良雄はいつまでも、快い春の日の暖さを、その誇らかな満足の情と共に、味わう事が出来たのであろう。が、現実は、・・・ 芥川竜之介 「或日の大石内蔵助」
・・・点々としている自然、永劫の寂寥をしみ/″\味わうというなら此処に来るもいゝが、陰気と、単調に人をして愁殺するものがある。風雨のために壊された大湯、其処に此の山の百姓らしい女が浴している。少し行くと、草原に牡牛が繋がれている。狭い、草原を分け・・・ 小川未明 「渋温泉の秋」
・・・きなければと思いながらも一本と吸っている時の私は、自分の人生を無駄に浪費しているわけだが、しかしそのような浪費のずるずるべったりの習慣の怖しさをふと意識した瞬間ほど、私は自分のデカダンの自虐的な快感を味わう時はないのだ。その一本の為に、私は・・・ 織田作之助 「中毒」
・・・ときどき波が来て私たちの坐っている床がちょっと揺れたり、川に映っている対岸の灯が湯気曇りした硝子障子越しにながめられたり、ほんとうに許嫁どうしが会うているというほのぼのした気持を味わうのにそう苦心は要らなかったほど、思いがけなく心愉しかった・・・ 織田作之助 「天衣無縫」
・・・しかしちょっと気を変えて呑気でいてやれと思うと同時に、その暗闇は電燈の下では味わうことのできない爽やかな安息に変化してしまう。 深い闇のなかで味わうこの安息はいったいなにを意味しているのだろう。今は誰の眼からも隠れてしまった――今は巨大・・・ 梶井基次郎 「闇の絵巻」
・・・これからいつもの市中へ出てゆく自分だとは、ちょっと思えないような気持を、自分はかなりその道に馴れたあとまでも、またしても味わうのであった。 閑散な停留所。家々の内部の隙見える沿道。電車のなかで自分は友人に、「旅情を感じないか」と言っ・・・ 梶井基次郎 「路上」
・・・それで季節が季節だけに自分のウォーズウォルス詩集に対する心持ちがやや変わって来た、少しはしんみりと詩の旨を味わうことができるようである。自分は南向きの窓の下で玻璃越しの日光を避けながら、ソンネットの二、三編も読んだか。そして“Line Co・・・ 国木田独歩 「小春」
・・・ かような時期においては反復熟読して暗記するばかりに読み味わうべきものである。 一度通読しては二度と手にとらぬ書物のみ書庫にみつることは寂寞である。 自分の職能の専門のための読書以外においては、「物識り」にならんがために濫読する・・・ 倉田百三 「学生と読書」
・・・真に恋愛を味わうものとは恋のいのちと粋との中心に没入する者だ。そこでは鐘の音が鳴っている。それは宗教である。享楽ではない。 清姫の前には鐘があった。お七の前には火があった。そして橘媛の前には逆まく波があった。 恋愛の宝所はパセチック・・・ 倉田百三 「女性の諸問題」
・・・ またすべての人が苦い別離を味わうとは限らない。自然に相愛して結婚し、幸福な家庭を作って、終生愛し通して終わる者ははなはだ多い。しかしそうした場合でもその「幸福」というのは見掛けのものであって、当時者の間にはいろいろの不満も、倦怠も、と・・・ 倉田百三 「人生における離合について」
出典:青空文庫