・・・ 私もそこにしてあるとおり、自分の布団と木枕とを上り口の横に積重ねて、それから顔でも洗おうと思って、手拭を持って階子の口へ行くと、階下から暖いうまそうな味噌汁の匂がプンと鼻へ来た。私はその匂を嗅ぐと、いっそう空腹がたまらなくなって、牽々・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・で通っている醜男の寺田に作ってやる味噌汁の匂いの方が、貧しかった実家の破れ障子をふと想い出させるような沁々した幼心のなつかしさだと、一代も一皮剥げば古い女だった。風采は上らぬといえ帝大出だし笑えば白い歯ならびが清潔だと、そんなことも勘定に入・・・ 織田作之助 「競馬」
・・・朝帰りの客を当て込んで味噌汁、煮豆、漬物、ご飯と都合四品で十八銭、細かい商売だと多寡をくくっていたところ、ビールなどをとる客もいて、結構商売になったから、少々眠さも我慢出来た。 秋めいて来て、やがて風が肌寒くなると、もう関東煮屋に「もっ・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・その上から、味噌汁の残りをぶちかけてあった。 子供達は、喜び、うめき声を出したりしながら、互いに手をかきむしり合って、携えて来た琺瑯引きの洗面器へ残飯をかきこんだ。 炊事場は、古い腐った漬物の臭いがした。それにバターと、南京袋の臭い・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・「おどれが味噌汁が鍋に茶碗一杯ほど残っとったんをなめよりくさる!」「味噌汁一杯位いやれい。」「癖になる! この頃は屋根がめげたって、壁が落ちたって放うたらかしじゃせに、壁の穴から猫が這い入って来るんじゃ。」 こんなことを云うにつ・・・ 黒島伝治 「老夫婦」
・・・これはたとえ味噌汁に茄子か筍の煮たのにせよ御膳立をして上げるのだから頗る手間がかかるので、これも過去帳を繰って見れば大抵無い日は無い位のもの。また亥の日には摩利支天には上げる数を増す、朔日十五日二十八日には妙見様へもという工合で、法華勧請の・・・ 幸田露伴 「少年時代」
・・・――円るい型にハメ込んだ番号の打ってある飯をワッパに、味噌汁を二杯に限って茶碗に、それから土瓶にお湯を貰う。味噌汁の表面には、時々煮込こまれて死んだウジに似た白い虫が浮いていた。 八時に「排水」と「給水」がある。新しい水を貰って、使った・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・指すところをじっと見守っていると、底の水苔を味噌汁のように煽てて、幽かな色の、小さな鮒子がむらむらと浮き上る。上へ出てくるにつれて、幻から現へ覚めるように、順々に小黒い色になる。しばらくいっしょに集ってじっとしている。やがて片端から二三匹ず・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・私は、とうとう佐渡を見てしまったのだ。私は翌朝、五時に起きて電燈の下で朝めしを食べた。六時のバスに乗らなければならぬ。お膳には、料理が四、五品も附いていた。私は味噌汁と、おしんこだけで、ごはんを食べた。他の料理には、一さい箸をつけなかった。・・・ 太宰治 「佐渡」
・・・と口を滑らせたばかりに、ざぶりと味噌汁を頭から浴びせられた。「ひどいわ。」朗らかに笑って言って素早く母の髪をエプロンで拭いてやり、なんでもないようにその場を取りつくろってくれたのは、妹の節子である。未だ女学生である。この頃から、節子の稀・・・ 太宰治 「花火」
出典:青空文庫