・・・ 翌朝、散歩していると、いきなり背後から呼びとめられた。 振り向くと隣室の女がひとりで大股にやって来るのだった。近づいた途端、妙に熱っぽい体臭がぷんと匂った。「お散歩ですの?」 女はひそめた声で訊いた。そして私の返事を待たず・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・ こうした不健康な土地に妻子供を呼び集めねばならぬことかと、多少暗い気持で、倅の耕太郎とこうした会話を交わしていた。 こうした二三日の続いた日の午後、惣治の手紙で心配して、郷里の老父がひょっこり出てきたのだ。「俺が行って追返して・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・―― 彼は酔っ払った嫖客や、嫖客を呼びとめる女の声の聞こえて来る、往来に面した部屋に一人坐っていた。勢いづいた三味線や太鼓の音が近所から、彼の一人の心に響いて来た。「この空気!」と喬は思い、耳を欹てるのであった。ゾロゾロと履物の音。・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・『吉さんおいでよ』とまたもやお絹呼びぬ。『わたしは先へ帰るよ』と吉次は早々陸へ上がる後ろよりそんならわたしたちも上がる待っていてと呼びかけられ、待つはずの吉次、敵にでも追われて逃げるような心持ちになり、衣服を着るさえあわただしく、お・・・ 国木田独歩 「置土産」
・・・健康なる青年にあってはその性慾の目ざめと同時に、その倫理的感覚が呼びさまされ、恋愛と正義とがひとつに融かされて要請されるものである。 さてかような倫理的要請は必ず倫理学という学に向かうとは限らない。一般に科学というものを知らなかった上古・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・軍医と何か打合せをしていた伍長が、扉のすきから獰猛な顔を出して、兵舎の彼に呼びかけた。「君は本当に偽物だとは知らずに使ったんかね?」「そうです。」彼は答えた。「うそを云っちゃいかんぞ!」「うそじゃありません。」「どこへも・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・「君のところへ呼びに行きはしなかったかネ。もしそうだったら勘弁してくれたまえ。」「ム。ハハハ。ナニ、ちょうど、話しに来ようと思っていたのサ。」 主客の間にこんな挨拶が交されたが、客は大きな茶碗の番茶をいかにもゆっくりと飲乾す、そ・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・口俊雄はこのごろ喫み覚えた煙草の煙に紛らかしにっこりと受けたまま返辞なければ往復端書も駄目のことと同伴の男はもどかしがりさてこの土地の奇麗のと言えば、あるある島田には間があれど小春は尤物介添えは大吉婆呼びにやれと命ずるをまだ来ぬ先から俊雄は・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・お大名から呼びに来ても往きません。贔屓のお屋敷から迎いを受けても参りません。其の癖随分贅沢を致しますから段々貧に迫りますので、御新造が心配をいたします。なれども当人は平気で、口の内で謡をうたい、或はふいと床から起上って足踏をいたして、ぐるり・・・ 著:三遊亭円朝 校訂:鈴木行三 「梅若七兵衞」
・・・東京の叔父さん達とも相談した上で、お前を呼び寄せるで。よしか。お母さんの側が一番よからず」 とおげんが言ったが、娘の方では答えなかった。お新の心は母親の言うことよりも、煙草の方にあるらしかった。 お新は母親のためにも煙草を吸いつけて・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
出典:青空文庫