・・・――誰だい――と呼ぶ吉田の声が、鋭く耳を衝いたので、子供が薄い紙のような眠りを破られた。「父ちゃあん!」 子供の食い取ってしまいたいような、乳色の手が吉田の頸にしがみついた。「おお、いい子、いい子、泣くんじゃねえ。誰が来たっ・・・ 葉山嘉樹 「生爪を剥ぐ」
・・・と、次の間へかけて呼ぶ。「もうすこし。お前さんも性急だことね。ついぞない。お梅どんが気が利かないんだもの、加炭どいてくれりゃあいいのに」と、小万が煽ぐ懐紙の音がして、低声の話声も聞えるのは、まだお熊が次の間にいると見える。 吉里は紙・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ろうるさく出てとぶ秋のひよりよろこび人豆を打つ酉(詠十二時夕貌の花しらじらと咲めぐる賤が伏屋に馬洗ひをり松戸にて口よりいづるままにふくろふの糊すりおけと呼ぶ声に衣ときはなち妹は夜ふかすこぼ・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・ それに実際そこを海岸と呼ぶことは、無法なことではなかったのです。なぜならそこは第三紀と呼ばれる地質時代の終り頃、たしかにたびたび海の渚だったからでした。その証拠には、第一にその泥岩は、東の北上山地のへりから、西の中央分水嶺の麓まで、一・・・ 宮沢賢治 「イギリス海岸」
・・・と云う含声をきいた時、さほ子は此娘をお前と呼ぶべきなのか、貴女と云うべきなのか、心を苦しめた。「国は何処?」 彼女は、優しく前髪を傾けて答えた。「越後でございます」「東京には、其じゃあ、親類でもあるの?」 娘は、唇をすぼ・・・ 宮本百合子 「或る日」
・・・この群集の海の表面に現われ見えるのは牛の角と豪農の高帽と婦人の帽の飾りである。喚ぶ声、叫ぶ声、軋る声、相応じて熱閙をきわめている。その中にも百姓の強壮な肺の臓から発する哄然たる笑声がおりおり高く起こるかと思うとおりおりまた、とある家の垣根に・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
・・・素問や霊枢でも読むような医者を捜してきめていたのではなく、近所に住んでいて呼ぶのに面倒のない医者にかかっていたのだから、ろくな薬は飲ませてもらうことが出来なかったのである。今乞食坊主に頼む気になったのは、なんとなくえらそうに見える坊主の態度・・・ 森鴎外 「寒山拾得」
・・・折々眼鏡を掛けた老人の押丁が出て名を呼ぶ。とうとうツァウォツキイの番になって、ツァウォツキイが役人の前に出た。 役人は罫を引いた大きい紙を前に拡げて、その欄の中になんだか書き入れていたが、そのまま顔を挙げずに、「名前は」と云った。「・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・ 或る日、ナポレオンは侍医を密かに呼ぶと、古い太鼓の皮のように光沢の消えた腹を出した。侍医は彼の傍へ、恭謙な禿頭を近寄せて呟いた。「Trichophycia, Eczema, Marginatum.」 彼は頭を傾け変えるとボナパ・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
・・・今の私の愛は愛と呼ぶにはあまりに弱い。私はまだ愛するものの罪を完全には許し得ないのである。愛するものの運命をことごとく担ってやることもできないのである。それどころではない。迷う者を憐れみ、怒るものをいたわることすらもなし得ない。力の不足は愛・・・ 和辻哲郎 「生きること作ること」
出典:青空文庫