・・・罪業の深い彼などは妄りに咫尺することを避けなければならぬ。しかし今は幸いにも無事に如来の目を晦ませ、――尼提ははっとして立ちどまった。如来はいつか彼の向うに威厳のある微笑を浮べたまま、安庠とこちらへ歩いている。 尼提は糞器の重いのを厭わ・・・ 芥川竜之介 「尼提」
・・・閣下、私はこの時、第二の私と第二の私の妻とを、咫尺の間に見たのでございます。私は当時の恐しい印象を忘れようとしても、忘れる事は出来ません。私の立っている閾の上からは、机に向って並んでいる二人の横顔が見えました。窓から来るつめたい光をうけて、・・・ 芥川竜之介 「二つの手紙」
・・・木にさえ火が燃え移って、柿の枯葉が、しゃあと涼しい音たてて燃えては黒くちりちり縮み、その燃えている柿の一枝が、私の居る二階の窓から、ほんとうに、ちょっと手を伸ばせば、折り取れるところに在って、それこそ咫尺の間に於いて私は、火事を見ていたので・・・ 太宰治 「春の盗賊」
・・・私は、東北の生れであるが、咫尺を弁ぜぬ吹雪の荒野を、まさか絶景とは言わぬ。人間に無関心な自然の精神、自然の宗教、そのようなものが、美しい風景にもやはり絶対に必要である、と思っているだけである。 富士を、白扇さかしまなど形容して、まるでお・・・ 太宰治 「富士に就いて」
・・・雨の小息みもなく降りしきる響を、狭苦しい人力車の幌の中に聞きすましながら、咫尺を弁ぜぬ暗夜の道を行く時の情懐を述べた一章も、また『お菊さん』の書中最も誦すべきものであろう。 わたくしは今日でも折々ロッチの文をよむ。そして読むごとに、わた・・・ 永井荷風 「西瓜」
・・・惨酷である。咫尺を解かぬ暗夜にこれこそとすがりしこの綱のかく弱き者とは知らなかった。危うしと悟る瞬間救いを叫ぶは自然である。彼らを危うしと見ながら悠々とエジプトの葉巻咽草を吹かすは逆自然である、悪逆である、さらに無道の極みである。「絶望・・・ 和辻哲郎 「霊的本能主義」
出典:青空文庫