・・・それがどうも口にこそ出さないが、何か自分たち一同に哀願したいものを抱いていて、しかもその何ものかと云う事が、先生自身にも遺憾ながら判然と見きわめがつかないらしい。「諸君」 やがて毛利先生は、こう同じ調子で繰返した。それから今度はその・・・ 芥川竜之介 「毛利先生」
・・・クサカは相変らず翻筋斗をしたり、後脚を軸にしてくるくる廻ったりして居るのだ、しかし誰もこの犬の目に表われて居る哀願するような気色を見るものはない。大人でも子供でも「クサチュカ、またやって御覧」という度に、犬は翻筋斗をしてくるくる廻って、しま・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・と亡母を念じて、己が身辺に絡纏りつつある淫魔を却けられむことを哀願しき。お通の心は世に亡き母の今もその身とともに在して、幼少のみぎりにおけるが如くその心願を母に請えば、必ず肯かるべしと信ずるなり。 さりながらいかにせむ、お通は遂に乞食僧・・・ 泉鏡花 「妖僧記」
・・・ いかがでしょうか、物の十分間もかかるまいと思いますから、是非お許しを願いたいですが、それにこのすぐ下は水が深くてとうてい牛を牽く事ができませんから、と自分は詞を尽して哀願した。 そんな事は出来ない。いったいあんな所へ牛を置いちゃい・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・妻子を抱えているものは勿論だが、独身者すらも糊口がし兼ねて社長の沼南に増給を哀願すると、「僕だって社からは十五円しか貰わないよ」というのが定った挨拶であった。増給は魯か、ドンナ苦しい事情を打明けられても逆さに蟇口を振って見せるだけだ。「十五・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・ 意外にも殆んど哀願的な口調だった。「飲みましょう」 釣りこまれて私は思わず言った。「あ、飲んでくれはりまっか」 男は嬉しそうに、罎の口をあけて、盃にどろっとした油を注いだ。変に薄気味わるかった。「あ、蜘蛛!」 ・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・彼は悄げて哀願的になった。「早や三人目かい。」杜氏は冷かすような口調だった。「はア。」「いつ出来たんだ?」「今日で丁度、ヒイがあくんよの。」「ふむ。」「嚊の産にゃ銭が要るし、今一文無しで仕事にはぐれたら、俺ら、困るん・・・ 黒島伝治 「砂糖泥棒」
・・・ その語調は知らず/\哀願するようになってきた。 老人は若者達に何か云った。すると若者達は、二人の防寒服から、軍服、襦袢、袴下、靴、靴下までもぬがしにかかった。 ……二人は雪の中で素裸体にされて立たせられた。二人は、自分達が、も・・・ 黒島伝治 「雪のシベリア」
・・・メロスは川岸にうずくまり、男泣きに泣きながらゼウスに手を挙げて哀願した。「ああ、鎮めたまえ、荒れ狂う流れを! 時は刻々に過ぎて行きます。太陽も既に真昼時です。あれが沈んでしまわぬうちに、王城に行き着くことが出来なかったら、あの佳い友達が、私・・・ 太宰治 「走れメロス」
・・・み、或いは疥癬の虫など、竹筒に一ぱい持って来て、さあこれを、お前の背中にぶち撒けてやるぞ、と言われたら、私は身の毛もよだつ思いで、わなわなふるえ、申し上げます、お助け下さい、と烈女も台無し、両手合せて哀願するつもりでございます。考えるさえ、・・・ 太宰治 「皮膚と心」
出典:青空文庫