・・・するとこの漢学者は露骨に不快な表情を示し、少しも僕の顔を見ずに殆ど虎の唸るように僕の話を截り離した。「もし堯舜もいなかったとすれば、孔子はうそをつかれたことになる。聖人のをつかれる筈はない」 僕は勿論黙ってしまった。それから又皿の上・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・ と折から唸るように老人が唱えると、婆娘は押冠せて、「南無阿弥陀仏。」と生若い声を出す。「さて、どうも、お珍しいとも、何んとも早や。」と、平吉は坐りも遣らず、中腰でそわそわ。「お忙しいかね。」と織次は構わず、更紗の座蒲団を引・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・そして唸るような声が思わず出た。「寿子、今の所もう一度弾いてみろ」「うん」 寿子は、自分が弾き間違ったので注意されたのだ、と思い込みながら、ベソをかいたような顔でうなずいて、再び弾きだした。ジプシイの郷愁がすすり泣くようなメロデ・・・ 織田作之助 「道なき道」
・・・匝れば匝られるものを、恐しさに度を失って、刺々の枝の中へ片足踏込で躁って藻掻いているところを、ヤッと一撃に銃を叩落して、やたら突に銃劔をグサと突刺すと、獣の吼るでもない唸るでもない変な声を出すのを聞捨にして駈出す。味方はワッワッと鬨を作って・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・と岡本は第二の杯を手にして唸るように言った。「だってねエ、理想は喰べられませんものを!」と言った上村の顔は兎のようであった。「ハハハハビフテキじゃアあるまいし!」と竹内は大口を開けて笑った。「否ビフテキです、実際はビフテキです、・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・ 彼は、あの土をもり上げた底から、なお、叫び唸る声がひゞいて来るような気がした。狭い穴の中で、必死に、力いっぱいにのたうちまわっている、老人が、まだ、目に見えるようだった。彼は慄然とした。 日が経った。次の俸給日が来た。兵卒は聯隊の・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・とび上った。 も一発、弾丸が、彼の頭をかすめて、ヒウと唸り去った。「おい、坂本! おい!」 彼は呼んでみた。 軍服が、どす黒い血に染った。 坂本はただ、「うう」と唸るばかりだった。 内地を出発して、ウラジオストックへ・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・ウーンと唸る声がした。同時に橇は、飛ぶような速力を出した。つづいて、シーシコフが発射した。 銃の響きは、凍った闇に吸いこまれるように消えて行った。「畜生! 逃がしちゃった!」 三 戸外で蒙古馬が嘶いた。 ・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・その歯の隙間から唸る声が漏れていた。看護長の苦々しげな笑いに気がつく余裕さえ上等兵には無いようだった。「自分がうるさいから叱っているんだ。」と栗本は考えた。「俺等のためなんど思っても呉れやせんのだ! どうしてこんなところへやってきたんだ・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・ 思わずおげんは唸るような声を出して自分の姿に見入った。彼女が心ひそかに映ることを恐れたような父親の面影のかわりに、信じ難いほど変り果てた彼女自身がその鏡の中に居た。「えらい年寄になったものだぞ」 とおげんは自分ながら感心したよ・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
出典:青空文庫