・・・併し斯うした商売の人間に特有――かのような、陰険な、他人の顔を正面に視れないような変にしょぼ/\した眼附していた。「……で甚だ恐縮な訳ですが、妻も留守のことで、それも三四日中には屹度帰ることになって居るのですから、どうかこの十五日まで御・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・だから商売は細君まかせである。細君は醜い女であるがしっかり者である。やはりお人好のお婆さんと二人でせっせと盆に生漆を塗り戸棚へしまい込む。なにも知らない温泉客が亭主の笑顔から値段の応対を強取しようとでもするときには、彼女は言うのである。・・・ 梶井基次郎 「温泉」
・・・ 茶店のことゆえ夜に入れば商売なく、冬ならば宵から戸を閉めてしまうなれど夏はそうもできず、置座を店の向こう側なる田のそばまで出しての夕涼み、お絹お常もこの時ばかりは全くの用なし主人の姪らしく、八時過ぎには何も片づけてしまい九時前には湯を・・・ 国木田独歩 「置土産」
・・・ そこで宿屋や、飲食店の商売繁栄策としても内地米が目標となる。 こんなのは、昨年の旱魃にいためつけられた地方だけかと思っていたら、食糧の供給を常に農村に仰がなければならない都会では、もっとすさまじいらしい。農村よりはよほどうまいもの・・・ 黒島伝治 「外米と農民」
・・・客は笑って、 「なアにお前、申訳がございませんなんて、そんな野暮かたぎのことを言うはずの商売じゃねえじゃねえか。ハハハ。いいやな。もう帰るより仕方がねえ、そろそろ行こうじゃないか。」 「ヘイ、もう一ヶ処やって見て、そうして帰りましょ・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・それよりお前さんらサッサとこの商売をやめねば、後で碌でもないことになるよ。」と云ったので、秀夫さんまでそれには笑ってしまったそうだ。――ところが、秀夫さんの方が何かと云うのに舌が口にねばり、乾いたせき払いをして、何時もとちがった声を出し、下・・・ 小林多喜二 「母たち」
・・・ども夫婦は、中野駅の近くに小さい料理屋を経営していまして、私もこれも上州の生れで、私はこれでも堅気のあきんどだったのでございますが、道楽気が強い、というのでございましょうか、田舎のお百姓を相手のケチな商売にもいや気がさして、かれこれ二十年前・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・考えてみると今どき棉を植えてみたところで到底商売にも何にもならないせいかもしれない。もっとも、統計で見ると内国産棉実千トン弱とあるから、まだどこかで作っているところもあると見えるが、輸入数十万トンに対すればまず無いも同様であろう。 花時・・・ 寺田寅彦 「糸車」
・・・多度でもないけれど、商売の資本まで卸してやったからね」と爺さんは時々その娘のことでこぼしていた。「お爺さんなんざ、もう楽をしても好いんですがね。」 上さんはお茶を汲んで出しながら、話の多い爺さんから、何か引出そうとするらしかった。子・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・お民の兄は始め芸者を引かせて内に入れたが、間もなく死別れて、二度目は田舎から正式に妻を迎え一時神田辺で何か小売商店を営んでいたところ、震災後商売も次第に思わしからず、とうとう店を閉じて郡部へ引移り或会社に雇われるような始末に、お民は兄の家の・・・ 永井荷風 「申訳」
出典:青空文庫