・・・ 縦横に道は通ったが、段の下は、まだ苗代にならない水溜りの田と、荒れた畠だから――農屋漁宿、なお言えば商家の町も遠くはないが、ざわめく風の間には、海の音もおどろに寂しく響いている。よく言う事だが、四辺が渺として、底冷い靄に包まれて、人影・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・…… ところが若夫人、嫁御というのが、福島の商家の娘さんで学校をでた方だが、当世に似合わないおとなしい優しい、ちと内輪すぎますぐらい。もっともこれでなくっては代官婆と二人住居はできません。……大蒜ばなれのした方で、鋤にも、鍬にも、連尺に・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・ 尤も椿岳は富有の商家の旦那であって、画師の名を売る必要はなかったのだ。が、その頃に限らず富が足る時は名を欲するのが古今の金持の通有心理で、売名のためには随分馬鹿げた真似をする。殊に江戸文化の爛熟した幕末の富有の町家は大抵文雅風流を衒っ・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・そのうちに、子供は大きくなったものですから、この村から程近い、町のある商家へ、奉公させられることになったのであります。 子供は、町にいってからも、西の山を見て恋しい母親の姿をながめました。村の人々は、その子供がいなくなってからも、雪が降・・・ 小川未明 「牛女」
・・・ 戸数五百に足らぬ一筋町の東の外れに石橋あり、それを渡れば商家でもなく百姓家でもない藁葺き屋根の左右両側に建ち並ぶこと一丁ばかり、そこに八幡宮ありて、その鳥居の前からが片側町、三角餅の茶店はこの外れにあるなり。前は青田、青田が尽きて塩浜・・・ 国木田独歩 「置土産」
・・・寒月子の図も成りければ、もとのところに帰り、この塚より土器の欠片など出したる事を耳にせざりしやと問えば、その様なることも聞きたるおぼえあり、なお氷雨塚はここより少しばかり南へ行きたる処の道の東側なる商家のうしろに二ツほどありという。さらばそ・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・公園のみは寒気強きところなれば樹木の勢いもよからで、山水の眺めはありながら何となく飽かぬ心地すれど、一切の便利は備わりありて商家の繁盛云うばかり無し。客窓の徒然を慰むるよすがにもと眼にあたりしままジグビー、グランドを、文魁堂とやら云える舗に・・・ 幸田露伴 「突貫紀行」
・・・ この高瀬が僅かばかりの野菜を植え試みようとした畠からは、耕地つづきに商家の白壁などを望み、一方の浅い谷の方には水車小屋の屋根も見えた。細い流で近所の鳴らす鍋の音が町裏らしく聞えて来るところだ。激しく男女の労働する火山の裾の地方に、高瀬・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・三代と続く商家も少いとよく言われるように、今度の震災を待つまでもなく、旧いものの壊れる日が既に来ていたろうかとは、母のような人でなければ疑えない事であった。先代を助けて店をあれまでにした母として見たら、新しい食堂なぞに新七の手を出すことは好・・・ 島崎藤村 「食堂」
・・・ある地方の倹約な商家では平日雇人のみならず主人達も粗食をしていて、時々「贅沢デー」を設けて御馳走を食ったという話もある。もっともこれは全く算盤から割り出した方法だそうではあるが。「無礼講」という言葉が残っており、西洋でも「エプリルフール・・・ 寺田寅彦 「雑記(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
出典:青空文庫