・・・ ツルゲネーフはまだ物心もつかぬ子供の時分に、樹木のおそろしく生茂った父が屋敷の庭をさまよって、或る夏の夕方に、雑草の多い古池のほとりで、蛇と蛙の痛しく噛み合っている有様を見て、善悪の判断さえつかない幼心に、早くも神の慈悲心を疑った……・・・ 永井荷風 「狐」
・・・さてその最後の判断と云えば善悪とか優劣とかそう範疇はたくさんないのですが無理にもこの尺度に合うようにどんな複雑なものでも委細御構なく切り約められるものと仮定してかかるのであります。中味は込入っていて眼がちらちらするだけだからせめて締括った総・・・ 夏目漱石 「中味と形式」
・・・ 人の智恵は、善悪にかかわらず、思のほかに成長するものなり。油断大敵、用心せざるべからず。ゆえにかの瓜の蔓も、いつの間にかは変性して、やや茄子の木の形をなしたるに、瓜はいぜんとして瓜たることもあらん。あるいは阿多福が思をこらして容を装う・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
人物の善悪を定めんには我に極美なかるべからず。小説の是非を評せんには我に定義なかる可らず。されば今書生気質の批評をせんにも予め主人の小説本義を御風聴して置かねばならず。本義などという者は到底面白きものならねば読むお方にも・・・ 二葉亭四迷 「小説総論」
・・・ある一派の倫理学者の如く行為の結果を以て善悪の標準とする者はお七を大悪人とも呼ぶであろう。この、無垢清浄、玉のようなお七を大悪人と呼ぶ馬鹿もあるであろう。けれどお七の心の中には賢もなく愚もなく善もなく悪もなく人間もなく世間もなく天地万象もな・・・ 正岡子規 「恋」
・・・元来食物の味というものはこれは他の感覚と同じく対象よりはその感官自身の精粗によるものでありまして、精粗というよりは善悪によるものでありまして、よい感官はよいものを感じ悪い感官はいいものも悪く感ずるのであります。同じ水を呑んでも徳のある人とな・・・ 宮沢賢治 「ビジテリアン大祭」
・・・ 私の心の驚いたり感じさせられたりする事は、善悪の区別もなく、美醜の見境えもないので、私の毎日は何と云う動かされどうしな事でしょう。 或る時は身の置き所のない程自分が小さく見すぼらしいものになったり、そうかと思えば非常に拡がった自分・・・ 宮本百合子 「動かされないと云う事」
・・・子供らの母はただそういう掟のある土地に来合わせた運命を歎くだけで、掟の善悪は思わない。 橋の袂に、河原へ洗濯に降りるものの通う道がある。そこから一群れは河原に降りた。なるほど大層な材木が石垣に立てかけてある。一群れは石垣に沿うて材木の下・・・ 森鴎外 「山椒大夫」
・・・ 私は此の文学的活動の善悪に関して云う前に、次の一事実を先ず指摘する。 ――いかなるものと雖も、わが国の現実は、資本主義であると云う事実を認めねばならぬ。と。 此の一大事実を認めた以上は、われわれはいかに優れたコンミニス・・・ 横光利一 「新感覚派とコンミニズム文学」
・・・というのは、おだてにのって、自分で善悪の判断をすることができなくなるのである。したがってますますばかになる。 もっとも、家来というものは、そういう悪意はなくとも、主君のすることをほめるものである。それに対してはしかるべき心得がなくてはな・・・ 和辻哲郎 「埋もれた日本」
出典:青空文庫