・・・文官教官は午飯の後はたいてい隣の喫煙室へはいる。彼は今日はそこへ行かずに、庭へ出る階段を降ることにした。すると下から下士が一人、一飛びに階段を三段ずつ蝗のように登って来た。それが彼の顔を見ると、突然厳格に挙手の礼をした。するが早いか一躍りに・・・ 芥川竜之介 「保吉の手帳から」
・・・私の喫煙量は急に増えて行った。 そして、私は放蕩した。宮川町。悔恨と焦躁の響きのような鴨川のせせらぎの音を聴きながら、未知の妓の来るのを待っている娼家の狭い部屋は、私の吸う煙草のけむりで濛々としていた。三条京阪から出る大阪行きの電車が窓・・・ 織田作之助 「中毒」
・・・だから昼間は阿片喫煙者のように倦怠です」 とK君は言いました。 自分の姿が見えて来る。不思議はそればかりではない。だんだん姿があらわれて来るに随って、影の自分は彼自身の人格を持ちはじめ、それにつれてこちらの自分はだんだん気持が杳かに・・・ 梶井基次郎 「Kの昇天」
・・・と出してやる、そして自分も煙草を出して、甲乙共、のどかに喫煙いだした。「君はどう思う、縁とは何ぞやと言われたら?」 と思考に沈んでいた乙が静かに問うた。「左様サね、僕は忘れて了った。……何とか言ったッけ。」と甲は書籍を拾い上げて・・・ 国木田独歩 「恋を恋する人」
・・・首尾よく不喫烟室に乗り込むまではよかったが、おれはそこで捕縛せられた。 おれは五時間の予審を受けた。何もかも白状した。しかし裁判官達には、おれがなぜそんな事をしたか分からない。「襟だって価のある物品ではありませんか」と、裁判官も検事・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・その頃同年輩の中学生で喫煙するのはちっとも珍しくなかったし、それに父は非常な愛煙家であったから両親の許可を得るには何の困難もなかった。皮製で財布のような恰好をした煙草入れに真鍮の鉈豆煙管を買ってもらって得意になっていた。それからまた胴乱と云・・・ 寺田寅彦 「喫煙四十年」
・・・四月十六日 喫煙室で乗客の会議が開かれた。一般の娯楽のために競技や音楽会をやる相談である。四月十七日 きのう紛失したせんたく袋がもどって来た。室のボーイの話ではせんたく屋のシナ人が持っていたのだそうな。四月十八日 顔・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・彼は生涯喫煙はしなかった。 一八六四年の秋には Sheepshanks Exhibitioner に選ばれた。これは大変な名誉なことであったが、これについて母に送った手紙には「試験官が私の書いたナンセンスに感服したのは可笑しい」とあった・・・ 寺田寅彦 「レーリー卿(Lord Rayleigh)」
・・・人生徒事の多きが中に、避姙と読書との二事は、飲酒と喫烟とに比して頗廉価である。避姙は宛ら選挙権の放棄と同じようなもので、法律はこれを個人の意志に任せている。 選挙にはむずかしい規定がある。一たびこれに触れると、忽縲紲の辱を受けねばならな・・・ 永井荷風 「西瓜」
・・・すなわち人生の働の一ヵ条たる喫煙も、その力よく発達すれば、わずかに数日の間に苦楽の趣を異にするの事実を見るべし。 ゆえに天下泰平・家内安全の快楽も、これを身に享くる人の心身発達して、その働を高尚の域にすすむるときは、古代の平安は今世の苦・・・ 福沢諭吉 「教育の目的」
出典:青空文庫