・・・我らの衷心が然囁くのだ。しかしながらその愉快は必ずや我らが汗もて血もて涙をもて贖わねばならぬ。収穫は短く、準備は長い。ゾラの小説にある、無政府主義者が鉱山のシャフトの排水樋を夜窃に鋸でゴシゴシ切っておく、水がドンドン坑内に溢れ入って、立坑と・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・忙しく泡を飛ばして其無数の口が囁く。そうして更に無数の囁が騒然として空間に満ちる。電光が針金の如き白熱の一曲線を空際に閃かすと共に雷鳴は一大破壊の音響を齎して凡ての生物を震撼する。穹窿の如き蒼天は一大玻璃器である。熾烈な日光が之を熱して更に・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・一をかける後も真理は古えのごとく生きよと囁く、飽くまでも生きよと囁く。彼らは剥がれたる爪の癒ゆるを待って再び二とかいた。斧の刃に肉飛び骨摧ける明日を予期した彼らは冷やかなる壁の上にただ一となり二となり線となり字となって生きんと願った。壁の上・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・ 病み疲れた、老い衰えた母は、そう訊ねることさえ気兼ねしていたのだが、辛抱し切れなくなって、囁くように言った。「大丈夫ですよ。お母さん、直ぐ帰って来ますよ、坊やを連れて行って来まさ」と云う方が真実であった。 勿論、直ぐ帰れる・・・ 葉山嘉樹 「生爪を剥ぐ」
・・・戸の内で囁く声と足音とがして、しばらくしてから戸が開いた。出て来たのは三十歳ばかりの下女で、人を馬鹿にしたような顔をして客を見ている。「ジネストの奥さんはおいでかね。」 下女は黙って客間の口を指さした。オオビュルナンはそこへ這入った・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・と囁く。太ったもう一人の弟は被った羽織の下で四足で這いながら自分が本当の虎になったような威力に快く酔う。 そんなことをして遊ぶ部屋の端が、一畳板敷になっていた。三尺の窓が低く明いている。壁によせて長火鉢が置いてあるが、小さい子が三人・・・ 宮本百合子 「雨と子供」
・・・ お君は父親を起すまいと気を配りながら折々隣の気合(をうかがって、囁く様に恭二に話した。 川窪で若し断わられたらどうしよう、東京中で川窪外こんな相談に乗ってもらう家がない。 どうもする事が出来ずに父親が帰りでもしたら又何と云われ・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・野を愛し、部族の生活を思い出し単純に、純朴にと一方の心は流れ囁く。而も、一方は無限の視覚、聴覚、味覚を以て細かく 細かく、鋭く 鋭くと生存を分解する、又組立てる。 考 創作をするにも種々な動機が・・・ 宮本百合子 「初夏(一九二二年)」
・・・そして、真黒な穴へ、何か囁くのを聞いているうちに、王様の顔は、だんだん晴々として来た。『ホホウ、これは妙案だ、フム、実に巧い!』『いかがでございます、陛下』『実に妙案だ、さぞそうなったらうるさくなくて気が楽じゃろうてハハハハハハ・・・ 宮本百合子 「地は饒なり」
・・・猫背の背中を真直にし、頭をふりあげ、愛想よくカザンの聖母の丸い顔を眺めながら、彼女は大きく念を入れて十字を切り、熱心に囁くのであった。「いと栄えある聖母さま、今日もあなたの恵みを与え給え。おん母さま」 地べたにつく程低くお辞儀をする・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイの伝記」
出典:青空文庫