・・・ 宗俊は肩をゆすった。四方を憚って笑い声を立てなかったのである。「よし、真鍮なら、真鍮にして置け。己が拝領と出てやるから。」「どうして、また、金だと云うのだい。」了哲の自信は、怪しくなったらしい。「手前たちの思惑は先様御承知・・・ 芥川竜之介 「煙管」
・・・ 玉蜀黍殻といたどりの茎で囲いをした二間半四方ほどの小屋が、前のめりにかしいで、海月のような低い勾配の小山の半腹に立っていた。物の饐えた香と積肥の香が擅にただよっていた。小屋の中にはどんな野獣が潜んでいるかも知れないような気味悪さがあっ・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・もしこの椅子のようなものの四方に、肘を懸ける所にも、背中で倚り掛かる所にも、脚の所にも白い革紐が垂れていなくって、金属で拵えた首を持たせる物がなくって、乳色の下鋪の上に固定してある硝子製の脚の尖がなかったなら、これも常の椅子のように見えて、・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・第一劇場からして違うよ』『一里四方もあるのか?』『莫迦な事を言え。先ず青空を十里四方位の大さに截って、それを圧搾して石にするんだ。石よりも堅くて青くて透徹るよ』『それが何だい?』『それを積み重ねて、高い、高い、無際限に高い壁・・・ 石川啄木 「火星の芝居」
・・・と交る交るいって、向合って、いたいたけに袖をひたりと立つと、真中に両方から舁き据えたのは、その面銀のごとく、四方あたかも漆のごとき、一面の将棋盤。 白き牡丹の大輪なるに、二ツ胡蝶の狂うよう、ちらちらと捧げて行く。 今はたとい足許が水・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・ ちょっとずきんをはずし、にこにこ笑って予におじぎをした。四方の山々にとっぷりと霧がかかって、うさぎの毛のさきを動かすほどな風もない。重みのあるような、ねばりのあるような黒ずんだ水面に舟足をえがいて、舟は広みへでた。キィーキィーと櫓の音・・・ 伊藤左千夫 「河口湖」
・・・そして、四方から、毎日のように集まってくるつばめを待っていました。もう、たくさんつばめが船に乗って、最後には、ほばしらの上まで止まって、まったく、はいる席がなくなった時分、静かに海岸をはなれたのです。 たいていは、月のいい晩を見はからっ・・・ 小川未明 「赤い船とつばめ」
・・・天井も張らぬ露きだしの屋根裏は真黒に燻ぶって、煤だか虫蔓だか、今にも落ちそうになって垂下っている。四方の壁は古新聞で貼って、それが煤けて茶色になった。日光の射すのは往来に向いた格子附の南窓だけで、外の窓はどれも雨戸が釘着けにしてある。畳はど・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・風通しの良い部屋とはどこをもってそう言うのか、四方閉め切ったその部屋のどこにも風の通う隙間はなく、湿っぽい空気が重く澱んでいた。私は大気療法をしろと言った医者の言葉を想いだし、胸の肉の下がにわかにチクチク痛んで来た、と思った。 まず廊下・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・大きな声が夜の空を劈いて四方へ響渡ったのみで、四下はまた闃となって了った。ただ相変らず蟋蟀が鳴しきって真円な月が悲しげに人を照すのみ。 若し其処のが負傷者なら、この叫声を聴いてよもや気の付かぬ事はあるまい。してみれば、これは死骸だ。味方・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
出典:青空文庫